私と合宿とWell-Being
伊東線が終日止まる中殆どのメンバーが伊東の旅館に無理やり集まる学畜っぷり。ブラックサークルと名高いことは承知の上でも私が親ならキレている。こんな波乱を乗り越えて人間の営みは感じられるのか。美しさとはなんなのか。突如言い渡された謎のお題とともにWell-Beingな生き方を解明すべくまさかの熱海を練り歩く。
夏の暑さに体力も精神も削られながら見えるものは一体何か。
2019年インアンドアウトラボ伊東合宿、開幕です!
もう終わってるけど。
合宿の内容とかは部長が語ってるのでそちらで!
https://mtzkkotomi12.hatenablog.com/entry/2019/09/11/093936
関係ないですが遠藤は体調不良のままFWしたら気管支炎が肺炎に悪化しました。うつした人いたらごめんなさい。
◼️己は一体何者か
人間の営みは美しいと思う。
ご飯を美味しそうに食べている人が好きだ。
他人が美味しそうにご飯を食べてる様子を見ると嬉しくなる。罪悪感にかられながらもご飯を残してしまう人を見ても頑張ったねと思う。
作品を作るが好きだ。
様々な観点から物事を捉えて巧みな言葉遣いで表現する。
陽炎や風の音、麦茶の氷が溶ける瞬間に想いを馳せ、それを風流だと感じる心が素晴らしいと思う。
本を読んでいる人を見るのが好きだ。
その本を読むことで驚かされたり、感動したり、心を動かされるということが美しいと思う。
謎の落書きが好きだ。
絶対これ描くの危険を冒してるだろとか、全くもって意味がわからない壁の落書きをみるとその無意味極まりない労力を費やす行為をした人が存在するんだということが微笑ましく思う。
好きなことをやっている人が好きだ。
自分が好きなことに対して熱量をこめて、時間を費やして、それを何かに繋げようと必死になる姿は見ていて応援したくなる。
嫌いなことをやっている人が好きだ。
嫌々ながらも何かの目的を果たすために葛藤をはらみながら行動する姿は愛おしさを覚える。
反社会的行為とか、人間としてしてはならないこととか、社会の影に入る部分のことは全く視野に入れていない状態だけど、基本的には人間が起こす行動は多少の善悪は営みとして愛おしいと思う。
でも一方でこの視点って誰の視点何だろうなとも思う。
間違いなく私の言葉で語っているわけではあるんだけど私という当事者の言葉ではない。
多分私の目の前でご飯を食い散らかされたらイラつくし、目の前で急に本気で短歌とか詩を詠われたら何行ってるんだコイツと思う。好きなことしてる人は応援したい気持ち同時に多分嫉妬するし嫌なことしてるひとには可哀想だと同情する。
一部はただ単に私の心が狭いだけなのかも知れない。でも好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いなのだ。
己の思考に矛盾をはらんでいる。
だけどもう一人の私はそんなわけわからない思考をもつ自分自身もこの複雑で単純な思考を人間らしくて面白いからいいじゃんと全肯定している。
全ての行為を愛おしむ世界線の私は人間の営みを愛おしむって行ってるけど実際その人間は生身の人間として見てるんじゃなくて舞台:地球、演者:人間みたいに物語のように他人事として見ているのかなと思う。確かにそうすると人間って何してても馬鹿でかわいいなって思うけど当事者間だからこそわかる問題を無視してしまう気がする。恐ろしい。
この神の視点で人間を愛する心も大事だけど引きすぎて脳内理想郷を語り出してバイアスかかりまくりみたいな状態にならないようにしないと危険だなと思った。何か行動に移すにはこの神に視点では何もできなくて、自分の視点で考えられないと、ただの他人の物語になってしまいそう。
余談だがこの神の視点を持つようになってから己の考え方正当化したり、心のマウントを取るのが上手くなった気がする。周りからしたらただの害悪だけど。
◼️Well-Beingは存在するのか
上記の己は何者か問題を考えているうちにWell-Beingは存在するのか問題にも直面した。
今回このWell-Beingは「より人間らしく生きる」、「生きていることに喜びを感じる」とか「生きていることを励まされる」という意味で使っている。神の視点から見たら、人間って面白い、美しい、愛おしいって思うけど遠藤個人としてみると自然に生きていて「あ〜生きててよかった〜人間として生を受けてよかった〜世界に感謝」って思うことってあるのだろうか。
個人的な趣味として舞台をみるのが好きで、舞台を見終わった後に「あ〜生きててよかった〜人間として生を受けてよかった〜世界に感謝」って思うことはある。冗談抜きで世界に感謝している。役者はもちろん、演出家脚本家衣装メイク照明バックヤード関連その他諸々その舞台に関わった全ての人、物に感謝している。
この熱烈な想いは神の視点ではなく間違いなく遠藤の内から湧き出る感情だ。ただこれは超非日常の状態であり、劇薬だとも思う。
私が勝手におもうWell-Beingとは日常やちょっとした非日常から生きる楽しさを感じる行為である。そうなると遠藤の当事者感としてそういう経験が思い浮かばない。なんかよくわからない美化が施されてあのときなんかよくわからないけど心が満たされた気がするってのはあるけどそれがよりよく生きることに繋がってるのかというと首をかしげる。
神遠藤の視点でみると全ての行為が生きるって良いことだってなるけど人間遠藤の視点で見ると基本的にはただ生きているだけだ。
そうなるとWell-Beingとは実在するのか、神遠藤のエゴなのではないかという疑問が出てきた。
◼️遠藤個人的な合宿の目的の話
このWell-Beingエゴ問題の結論を求め神遠藤ではなく人間遠藤が「あ〜生きてて良かった〜」と思えるのかどうか確かめるために熱海の地へと降り立った。
結論としては合宿で「あ〜生きてて良かった〜」とまではいかなかった。
ただ暑かった。途中テンションが少し上がることがあっても暑さの前では無力だった。
そもそも今回のチームのお題である夏の風を感じるよりも冷房の風を感じていたいという女にクソ暑い中で生きる喜びを感じる方が難しい。しかも体調不良と電車が止まってテンションだだ下がりのダブルパンチつきだ。
神遠藤がそれもまた人間という感想を抱く隙なく人間遠藤の体力と精神がレッドゲージになり、生きることに必死だった。意味不明な暑さ、溢れる観光客、止まらぬ咳に動かぬ電車。Well-Beingどころか生きていることを否定されている気がした。badly-being。
◼️心の余白とWell-Being
結局の話心に余裕がないと生きる喜び、暮らしの中でどうしたいかななんて感じる余裕がない。
合宿前に事前会議で神遠藤と人間遠藤が話し合った結果「よりよく生きる」とか「生きる喜び」「生きてて良かった」としみじみと心に染み渡るときは余白の時間なのではないかという結論になった。
生きてく上で必要不可欠なものではない、ある意味非効率で、機能性の観点から見ると一見価値がないように見える無駄な行為、余白の時間にしみじみと心に染み渡る生きる勇気与えてくれるものがあるのではないかという仮説を立てた。
結論としては前提条件を満たせなかったため検証はできなかった。函館に持ち越し。
◼️神遠藤ウキウキポイント
よくわからない看板とか急な階段とか、あからさまに急にこしらえた手すりとか、人間の爪痕が残る光景っていいなと思う。
完璧な状態ではなく、妥協点でこしらえている感じがなんとも言えない人間臭さがあっていいなと思う。完全に自然には争いきらず、ほどよく和解して、生活できる程度に手を加える感じがなんとも言えない。ところどころに神社があって、自然を崇める、共存してる感じか人間と営みという感じがして好き。
書いていて思ったことなんだけど、人工物と自然の共存に魅力を感じるのは神遠藤としてで、自然現象とか、人間が関わりようのない部分に惹かれてしまうのは人間遠藤の心なのかもしれない。
もしかしたら今回のテーマ「Well-Being」って人間遠藤の心の揺らぎというのがキーポイントなのかもしれない。「私が」好き、「私が」良いと思う、「私が」圧倒される。そんな風に常に「私」主体で心を揺さぶられることが「よりよく生きる」ことなのかもしれない。そう思うと今回の合宿の敗因は「私」が足りてなかったのかもしれない。他者のせいにすると「私」を引きずり出すほどの心が揺さぶられなかったとも言えるけど。
何か色々書こうと思ったことはあった気がするけど忘れたのでここら辺で締めます。思い出したらどこかで書きます。
合宿の思い出を雑に並べておきます。
今回というより毎回ですが久保田の優しさに触れ心の涙を流してました。thank you 久保田。感謝。ありがとう。
全く関係ない話ですが卒業旅行というものに深い関心を持たない人間なので周りが海外〜キャッキャっとしてるなか熱海でいい温泉に浸かりたいと考えていた。でも実際熱海を歩いてみて思ったより都会で程よく観光のために最適化されていて求めていたのはこれではないという結論に勝手にいたりやっぱ長野かな〜と思いました。長野に詳しくないけどなんか長野なら程よく田舎そうなイメージがある。
おしゃれ〜とかエモとかどうでもいいから傷心旅行に行きたい。エモじゃ私の心は満たされない。虚無に浸りながらどこかの片隅で体育座りで誰にも邪魔されず鎮静作用を持つような光景を見ていたい。今回使った言葉で言うなら「私」を引きずり出して「私」を圧倒してほしい。体操座りで「私」をしみじみと感じる場所に行きたい
でも一人は寂しいからたまに誰かかまって欲しい。強欲。