デザイン学会in名古屋にて
名古屋のデザイン学会に行ってきました
部長の望月とは最近週6で行動を共にしています。先週、今週、来週の3週間連続で金土日、同じ空間で夜を過ごす仲です。
エアビで宿をとって同じ部屋でわちゃわちゃするのはホテルやドミトリーとは違う楽しさがあっていいですね。
今回の学会では、改めてデザインってなんだろうなって思いました。ブログを更新するたびにデザインって何か考えてるなこいつって感じですね。
■結局デザインとは何なのだろうか。
哲学?
人類の営みを研究する?
人間らしさを追求する?
人類の創造的活動を承認する行為?
■学校でデザインを学ぶ意味とは何なのだろうか。
学校で現場を学ぼうとするのはただの真似事、劣化版であり、現場の知恵や勘がないとサービスデザインは成り立たない。
即戦力は成り得ないならば何のために自分は学ぶのか
学会に行くたびに脳が混乱させられる気がする。
■学会とはどのような場なんだろう。
もっと深い意味て人々の営みを解釈するために、
デザインを噛み砕く場?
デザインの未来を語る場?
最先端を学ぶ場?
実務に使えなくては意味がないという考え方が脳の片隅にある?
学会に来たぞという満足感を得る場?
なんか考え方が表層的だなぁと思う
■どんな心構えで参加するのか
デザインを職とする者としてではなくデザインを学ぶ者として参加する?
デザインがわからなくなる理由ってここなのかな。
社会の一般的なデザイナーはグラフィック的デザインをする人で
学内で学んでいることはサービスデザインで
働く会社はUIデザイナーとして雇い
学会では共同体、社会のデザインをどうするかという話をするし。
■いつだか感じた学会の違和感はこのすれ違いなんだろうなって思う。
世の中のこととか、やりたいと思うことと、世の中で求められていること、世の中で成り立たせられることが一致していない。世の中の言うデザインと社会で今流行ってるデザインと、学会で取り扱ってるデザイン、どれも同じデザインでも内容が全然違うっぽい?
混沌。デザインって領域はこんなに魔空間なの?それを理解した上で話を聞いてないと混乱するなって思った。去年の私、そういうことだよ。
■一方で卒制をやる上で、勇気付けられた気がする。まだ何も進んでないけど。
デザインを「学ぶ」段階の自分は、別に社会に出て有益なものを選ばなくてはならないわけではない、実務に直結するものを選ばなくてはならないってことはない。
ビジネスに直結しないことを時間に余裕を持って考えられるってたぶん今だけなのかなとも思う。
人間ってこうだといいよねとか、もっとこうしたいって視点から、資本主義の守備範囲外になるところをできるのって遠い未来では当たり前になったとしても、近い将来だと今だけなのかな。
本当に直近の課題として卒制どうしよう問題にぶち当たっててその問題がこれ自分がやったところで意味があるのかとか、自分にはできるのか、デザインの守備範囲外ではないか、社会レベルの問題にアプローチするなんて無理ではないかとずっと足踏みしていたけど卒制って自分が信じる価値を信じる力をつけるためにやるのかなと思った。
学会は事実に基づいた綺麗事を語る場
悪い意味ではなく、いかにその理想とする綺麗事に社会全体を近づけていくか。
今まで散々表面ばかりの手法の勉強をしてきた中身のない上っ面だけの存在だからこそ自分の内側を詰めていきたいなと思った。
■学会とかデザイン経営の話を聞いてるとデザイナーは神なのか?と思ってしまう。デザイン至上主義みたいな。
でも結局はデザイナーは歯車でしかないのかなとも思う。デザインの力でどうにかできる問題もいっぱいあるけどデザインの力だけではどうにもならない。下請け云々の話ではなくて、デザインを使ってどうこうする役割を担ってる?みたいな感じ。うまく言えないけど。 デザイナーだけが特別な力があるって言うんじゃなくてみんな平等に秀でているものがあって互いに作用しあって社会を動かす?という感じ。
今は自分はデザインという視点でしか物事を語れないけど、もっと多面的に視れる力をつけたいなぁと思う。
これからの遠藤に乞うご期待。