「経営とデザイン:思考の実験室」にて
「経営とデザイン:思考の実験室」
やってきました。
詳しいことは望月のブログにて
https://mtzkkotomi12.hatenablog.com/entry/2019/07/08/114626
わたしはいつもの通り感想をつらつらと書いていきます。
■近大生の話
こっちが話したことを秒で理解して、こっちが約3年間かけてたどり着いた場所にいとも簡単にくるの恐ろしいなって思った。
ぶっちゃけた話、今回のワークの価値の抽出の部分が立て込むことは予想できてたと思うので、ビジネスどうする?とかサービスの仕組みどうする?という落とし込みの部分はどうしても弱くなってしまうことは予想されていたんじゃないかなと思う。
ついつい自分がテーブルの舵を取ってしまうと自分の領域に持ち込んでしまいがちなのを止めてくれる存在、いやこっちに舵きらないとまずいよとか、考える存在は絶対に必要だなと思う。
■矛盾は本当に矛盾か
ぶつかり合う意見は悪でもないし敵でもない。それをグループメンバー全員が共通認識で持たないとWSは成り立たないのかなと思う。
ぶつかりあったら相手を自分の意見で潰してやる!!っていう考え方はしないってのは勿論だけど、相手の意見と違うこと言ったら輪をかき乱しちゃうな、どうせ自分の意見は大したことないから黙っておこうみたいな考え方になってしまう。
批判をするのと、疑問を持つのは違うしね。
ただ頭ごなしに相手の意見を批判するのではなくて、どうしてこう思ったんだろうか、自分の視点だとこう思うけどそれは誰の立場の視点なのだろうかとか考えるといいのかなと思う。ただ自分はまだその領域に達せていないなとも思う。難しいね。
■リアクションがめちゃくちゃに早い
それってなんでですか?とか、実体験だとどんな感じ?とか聞くと秒で返答がくる。
人生経験の豊かさとか人脈の広さとか、それをすぐに引き出せる脳の回転の速さとか、我々にはないものだなと思った。見習いたい。
コミュ障気味な人間なので、表面上とか、事務的な話とかは他人とできてもその人の内側まで踏み込む度胸がなく、じゃあこの人ってどんな人間なの?を外側でしか判断できないところが考え方とか価値観の浅さ、引き出しの少なさにつながるのかなぁと反省した。
■言葉の嘘っぽさ
一回やればデザイン×経営が断片的にでも見えるのでは?って考えたのが間違いだったと思う。お互いに未知の存在のままで一回飲んだぐらいの関係でそんな化学反応が起こるわけがないよなと。
そう思うとデザインとビジネスとテクノロジーが交われば物凄いことが起きるよ!って言葉ってなんだか嘘っぽい。
ビジネス×テクノロジー×デザインが複合的に交わることで越境していく必要があることはわかるけどビジネス×テクノロジー×デザイン=∞みたいな方程式ではないのだと思う。
ビジネス×テクノロジー×デザイン×X=∞でこのXの要素がないと何も起きない側だけになるのかな?ただこのXが何かはわからないけど。わたしにはまだこの方程式が何か価値を生み出す手段であることはわかっても本質は理解できてないということが改めてわかった。
デザイン手法におけるこの手法を使えば顧客の心情が絶対にわかる!!😉😉みたいな。
そんなこと言ったら普通に面白いジョークだぜ!そんなわけねーだろ!!!みたいになること必須だよね。
なにが、どう作用することによって、こんなことが起こるから、これは有効な手段であるっていう理論的なものと自分の仮説を持って何度も実験して、初めてデザイン経営、ビジネス×テクノロジー×デザインという方程式の本質が見えてくるのかなと思った。
まだわからない。
■CVCAの話(メモ)
なんとなくの関係のなかで置かれる事業者に意味はない
お金の動きだけじゃなくてお金の数字が出ることで初めて、ステークホルダーの利害関係が可視化される。その利害関係を見た上で、本当にそのステークホルダーは協力してくれるのかを見極める。もし協力が厳しいようならどうすれば協力してくれるか、もしくはどうすればそれと同じ協力が得られるかを考えることができるのことに価値がある
すっごいどうでもいいことだけどデザイン側はデザイン×経営っていってて経営側は経営×デザインっていってるのが面白いなって思って見てました。
あとここら辺の内容秋の学会で発表するかもってマジ?!
デザイン学会in名古屋にて
名古屋のデザイン学会に行ってきました
部長の望月とは最近週6で行動を共にしています。先週、今週、来週の3週間連続で金土日、同じ空間で夜を過ごす仲です。
エアビで宿をとって同じ部屋でわちゃわちゃするのはホテルやドミトリーとは違う楽しさがあっていいですね。
今回の学会では、改めてデザインってなんだろうなって思いました。ブログを更新するたびにデザインって何か考えてるなこいつって感じですね。
■結局デザインとは何なのだろうか。
哲学?
人類の営みを研究する?
人間らしさを追求する?
人類の創造的活動を承認する行為?
■学校でデザインを学ぶ意味とは何なのだろうか。
学校で現場を学ぼうとするのはただの真似事、劣化版であり、現場の知恵や勘がないとサービスデザインは成り立たない。
即戦力は成り得ないならば何のために自分は学ぶのか
学会に行くたびに脳が混乱させられる気がする。
■学会とはどのような場なんだろう。
もっと深い意味て人々の営みを解釈するために、
デザインを噛み砕く場?
デザインの未来を語る場?
最先端を学ぶ場?
実務に使えなくては意味がないという考え方が脳の片隅にある?
学会に来たぞという満足感を得る場?
なんか考え方が表層的だなぁと思う
■どんな心構えで参加するのか
デザインを職とする者としてではなくデザインを学ぶ者として参加する?
デザインがわからなくなる理由ってここなのかな。
社会の一般的なデザイナーはグラフィック的デザインをする人で
学内で学んでいることはサービスデザインで
働く会社はUIデザイナーとして雇い
学会では共同体、社会のデザインをどうするかという話をするし。
■いつだか感じた学会の違和感はこのすれ違いなんだろうなって思う。
世の中のこととか、やりたいと思うことと、世の中で求められていること、世の中で成り立たせられることが一致していない。世の中の言うデザインと社会で今流行ってるデザインと、学会で取り扱ってるデザイン、どれも同じデザインでも内容が全然違うっぽい?
混沌。デザインって領域はこんなに魔空間なの?それを理解した上で話を聞いてないと混乱するなって思った。去年の私、そういうことだよ。
■一方で卒制をやる上で、勇気付けられた気がする。まだ何も進んでないけど。
デザインを「学ぶ」段階の自分は、別に社会に出て有益なものを選ばなくてはならないわけではない、実務に直結するものを選ばなくてはならないってことはない。
ビジネスに直結しないことを時間に余裕を持って考えられるってたぶん今だけなのかなとも思う。
人間ってこうだといいよねとか、もっとこうしたいって視点から、資本主義の守備範囲外になるところをできるのって遠い未来では当たり前になったとしても、近い将来だと今だけなのかな。
本当に直近の課題として卒制どうしよう問題にぶち当たっててその問題がこれ自分がやったところで意味があるのかとか、自分にはできるのか、デザインの守備範囲外ではないか、社会レベルの問題にアプローチするなんて無理ではないかとずっと足踏みしていたけど卒制って自分が信じる価値を信じる力をつけるためにやるのかなと思った。
学会は事実に基づいた綺麗事を語る場
悪い意味ではなく、いかにその理想とする綺麗事に社会全体を近づけていくか。
今まで散々表面ばかりの手法の勉強をしてきた中身のない上っ面だけの存在だからこそ自分の内側を詰めていきたいなと思った。
■学会とかデザイン経営の話を聞いてるとデザイナーは神なのか?と思ってしまう。デザイン至上主義みたいな。
でも結局はデザイナーは歯車でしかないのかなとも思う。デザインの力でどうにかできる問題もいっぱいあるけどデザインの力だけではどうにもならない。下請け云々の話ではなくて、デザインを使ってどうこうする役割を担ってる?みたいな感じ。うまく言えないけど。 デザイナーだけが特別な力があるって言うんじゃなくてみんな平等に秀でているものがあって互いに作用しあって社会を動かす?という感じ。
今は自分はデザインという視点でしか物事を語れないけど、もっと多面的に視れる力をつけたいなぁと思う。
これからの遠藤に乞うご期待。
ノート棚卸し
色々とメモ帳につまりにつまっていたので大放出しようと思います。
書いてる時期も違えばテンションも違うので文体がぐちゃぐちゃですがなんかお蔵入りさせとくのも勿体無いので出しておこうと思います。
--------------
感じていた違和感の正体
発表を聞きながら別に悪い意見ではないしそうだよなって思うことが多く、間違っていない、その意見は正しいし施策としてはあり得るんだろうなって思うものだった。もちろんツッコミどころは多いが、短い時間で作ったにしては良いものだったと思う。でもどうしてもこれではない感が拭えないなという感想だった。発表を聞きながら何が違和感があるんだろうと考えていたが、問いがないとか、本質的な何かが抜けているということは明らかなのだが、そこから今一歩踏み込んだ理由が掴めないなとモヤモヤしていた。ずっとなんか違うよな〜何だろうな〜これにおける本質って何だろうな〜って考えていてようやく一つこれかな?というものが出てきた。
考えていたものが「どうやって価値を伝えるか」ということがベースになっていたことかなと思う。
もちろんこのことも大事だ。でもこの場で1番考えなくてはいけないのは「どのような価値を提供するか」でなくてはならなかったのだろう。
言葉としては似ているし、「どのような」を考えるよりも「どうやって」を考えたほうが成果物見栄えが良い。
「どうやって」が考えられていなければ価値は伝わらないため、考えなくてはならないことに間違いはない。だが「どのような」価値を伝えるかわかってなければ如何に素晴らしい伝える手段があってそれっぽくても何か違和感が出る
舞台や映画で如何に壮大な演出をして、レベルの高い演技力をもつキャストを起用し、素晴らしい音楽が流れたとしても、脚本がよくわからなかったり、なんか結局何がしたいのかよくわからなかったというのと同じかも。
結局はキャストや音楽、舞台装置などの演出は何か伝えたいものがあってそれを客に伝えるための装置でしかない。伝えたいものを伝えるために試行錯誤して演出にこだわるし音楽もこだわるしより良いキャストを起用するんだよなぁ。
何が言いたいかっていうと提供したい価値が明確ではなかったのにどうやって伝えたいかだけを作り上げていったからコレジャナイ感が拭えなかったのかなということ。
別にどうやって伝えるか考えることがダメなのではなくて伝えたいものも無いのに伝える方法ばかり考えてもそりゃ意味ないわって話。
普段伝えたいものはあるのに伝える手段が全然出てこなくで頭を抱える日々を過ごしているので逆に手段を考えることがうまくいってる感を感じてしまっていてそこにこだわってしまっていたなと。反省。
始まってからよくわからなすぎてテンパってしまったけど改めて考えると普通に今まで通り、未来はどうなっているのか、未来はどうあってほしいかという観点から逆算して下ろしていけばよかった。
冷静になって考えれば未来から今を見据えればよかったのだな思った
-----------------------
ワークする上で気をつけなくてはならないこと(感想)
ワークする人の間で上下関係は存在しない
相手を常に尊敬する姿勢が必要不可欠である
もちろん引っ張れると思える人はその実力を発揮するべきであるとは思うが、命令であってはならない。
心地よいワークし、終わった後に良い場だったと思うためにはお互いの意見を聞き出せているのがベスト
自分事化するためには自分の意見が言える場である
そしてファシリテーターが先を見通している必要性がある。
何のためにこの工程をしているのか
作るために話し合っているのではない
作ったものをどう扱うか、どう動かしていくかという観点、もしくはメンバーが今どう思っているのか引き出せる、フラットで忌憚のない意見が聞けるということが大事
あいつらはバカだから分かっていない、なんでこんなレベルの低いことをしているんだと思うのならそれは自分が独りよがりになっている証拠なのかもしれない
ワークショップをやる上で目的の共有ってまじで大事だなって思った
サービスだけ作っても本当に意味ないんだなって思った
サービスを作ることに価値はない。
サービスでどんな価値を提供するかってこととそれを本当に伝えられるのかってだけ
あとその場で何が求められているのか
今回の場合ポスター発表で必要なことはサービスの説明じゃなくて工程とかどんなもがきをしてどこがつらくて改良したくて悩んでるかを共有して、そうだよねとかこうすればいいんじゃない?という意見を磨き合う場で、こんなの作ったよニコニコじゃダメだったなぁ
-----------------
本当に学会行ったのか?と言うほど直接的に学会の内容には触れてないですが学会に行ってきました。
▪️私たちの強みとは何か
社会の流れから外れることなく就活というものに影響を受けながら日々生きています。
そのため、私たちの就活中のライバルはどんなことできるの?私たちは勝てるの?勝つためには何すればいいの?ということを裏目標にして学会に挑みました。結果としては他大学はほとんど学会にこれなかったためこの裏テーマは消え去りました。南無。
HCDを学んでいることはもうすでに強みにならない、当たり前になっている。らしい。
だからといって自分が何ができるかって言われても何ができるって言えるほどの強みがあるわけでもない。悲しいなぁ。
▪️共創
今時代は共創だって言われてるけどI/Oの人って全然共創してない!トップダウンが嫌って言いながらも共に創れてない!当事者がいない!でもこれってチャンスでは?
上の私たちのつよみとは何かにつながるが、I/Oと他大学の違いってゼミじゃない、強制されてできた組織ではないということだと思う。ならば組織の形は自由。フラットな人間関係ができる組織にした〜い!楽しくいこ〜ぜ!
技術で勝てない、HCDは出来て当たり前、ビジネスもペーペー、現場に乗り込む度胸もない、ならそれ以外何がある?ってなったら組織づくりなのかなと思う。脱息苦しいサークル。
今の3年でディスカッションしている時って結構楽しい。その時って結構意見がバンバン出るし勝手に誰かが可視化して拡散と収縮が自然と出来ている気がする。
この瞬間って共創している状態なのかなって思う。
この楽しさを是非2年生とかに味わってほしいと思う。議論が加速していく感じ(?)
自分が楽しくなければ他人を楽しくさせることなんてできないし自分が幸せじゃないのに他人を幸せにするなんてことはできないと思う。ユーザーの幸せ考える前に自分の幸せ考えろよって感じ。みんなで幸せになろうね。
▪️誰のためのデザインか、何のためのデザインか
社会に求められるデザインはこんな感じ。
でも私って別に社会に求められたいからデザインしてるわけじゃない。
その考え方が必要だから取り入れるはわかる
その考え方が面白いからウケるからやろうはわからない。
私は何でデザインをするの?したいの?
それの根本的なものがない空虚な人間だなあ。探す旅に出るべきか? 何のために生きてるの自分。
私はできることなら頑張ってる人が幸せになる社会がいいと思う。理不尽なことを解決するためにデザインが利用できる。
だからUXDやHCDを私は勉強しているんじゃないの?それを持続して続けるためにビジネスがあるんじゃないの?受け狙いでやったら誰中心設計なの?先方中心設計じゃんwさようならw
と思ってたけどなんか勝手にスッキリしました。
良くも悪くも当事者デザインであってもサービスデザインであってもそれは社会を良くする手段でしかないのでは。
頭の中で勝手に反抗してたのは私の中での就活が無意識に大きくなりすぎていたのかもしれない。だからなんでもかんでも就活に結びつけてクソクソクソ〜〜ってなってた。たろえ就活でウケるためのデザインだとしてもそのウケることが目的ではなくてウケることで得られる結果が目的なんだなって。
ものすごい大袈裟だけど私が10年後20年後社会をよくしていける人になりたい!!ってなったときにそれができる人になるための手段でしかないんだと思いました。
といっても当事者デザインがなんたるかはイマイチわかってない
今まで産業革命で大量生産大量消費により心を失いながらも頑張ってやってきたけどそんな機械的になんかやるのはもう限界!!他人を愛そ!!自分を愛そ!!私にとってあなたは他人じゃない!!あなたの問題は私の問題、いや私たちの問題だよ!一緒に解決していこう!すべてのことは自分ごとで考えよ!!ということ??よくわからない。
それを学ぶ手段として自然と触れ合うとかコミュニティに参加してみるってこと?
今までは、デザイン思考で捉えてサービスを提供するのに共感が必要!でも自分がその立場じゃないからわからない><共感するためには当事者となることが必要なんだ!😳
という感じだと思ってたのですがもうよくわからないです。
A:デザインとしての考え方(自分が当事者になって立場が変わって行く)当事者デザイン
B:純粋に昔みたいなあったけえ人と人とのご近所付き合いのような、物々交換をし合うような、究極的にはお金がいらなくなる助け合いとしての当事者デザイン
違う事言ってるのに両方とも当事者デザインって言ってるからよくわからなくなる気がする。
デザイン界隈こんな事多くない?別のことを同じ言葉を使うから話が噛み合わずに混乱するし初学者は迷子になるのでは?。何でもかんでもデザインつければ良いってものではない。混乱しか招かない。
▪️今の社会とこれからの社会
井登さんの発表が個人的になるほどとなった。
今社会を構成しているほとんどのものってインターネットが発展する前のものだということ。第四次産業革命が起きつつある(もう起きている?)のにその前のシステムで動き続けているからいろいろなところで歪みが起きてきている。だからいずれインターネット前提でないものは変化か崩壊するだろうという話。
なんかこんな話をよく聞くなぁと思う。高校時代の小論文で書かされた気がする。それは人と人との関係性の話だったけど。
なんか色々なものが限界にきてるんだなと思う。
これから色々な組織やモノが変化するか崩壊していくのだと思う。封建主義(?)、社会主義、資本主義と変化し壊れてきたが、これからはどう変わっていくのだろう。どちらかと言えば年齢的には変えて行くになるのか......?
▪️学会3日間の翌日に京都にいってきた
今考えるとアホかなと思う。帰ってきた火曜日は脳内CPUの稼働率が95パーセントぐらいでポンコツで空気とかしてましたが書いている今は再起動して70パーセントくらいまで落ち着きました(?)未だポンコツ状態なのは変わらないけど。
結論として京都いってよかったーと思います。特に19時から突如登り始めた稲荷山が良かった。
蛍を人生で生まれて初めて見ました。
なにも考えずにホゲーっとしている時間って大切だなって。私と環境だけの世界。もしかしたら私も環境かもしれない(?)逆当事者。
人という単位で区切るのではなく私以外は全部環境。だからなにに気を使う必要はないのかなって。他人を意識するのって疲れるし。
何をするにしても他人がつきまとうなんて面倒な世の中だなぁ。
と思う一方で人の温かみも大切だなぁと思う。人間って難しいなぁ。
稲荷山の道中で拾ってくれたおじさんとホタルについて教えてくれた龍谷大の教授と唐突に似顔絵をくれた外国人観光客のお兄さんに感謝をこめて。
レコーダー視点で語るDesignship2018
【レコーダー視点で語るDesignship2018】
お久しぶりです。常葉大学の遠藤です。
先日行われたdesignshipにてグラグリッドさんのインターン生として、ビジュアルシンキングのお手伝いをしてきました。
レコーダーから見た内容要約!とかしても今回のグラレコは記録のためではないため他の方々の文章での速報の方が何倍も詳しく書かれているので省略します。いつもの通り主観で感じたことを書きました。グラフィッカー視点でって書いてあるけどどちらかというと遠藤視点で語るDesginship2018な気もします。
◼︎何のためのグラレコか
今回グラフィクレコーディングを行なっていましたが、こちらの肩書きは「ビジュアルシンキングパートナー」でした。
ノートテイクとしての役割ではないです。
広義としての本質的な価値は他の子が書いているので省略します。
▼部長の望月
https://mtzkkotomi12.hatenablog.com/entry/2018/12/03/211624
▼副部長の山川
https://note.mu/harekuma/n/n43d05a2ee6c2
では狭義としてはなんのために描いてたかというと、セッションで聞いた内容へのリフレクションのとしてです。
簡単に言うと、聞いた内容にたいして何か思うことあったらメッセージ書いてね、得た知識を自分の中で終わらせないでアウトプットしましょう!ということです。
率直になんか聞いて、思って、それどこかにその想いぶつけたくない?そのぶつけ先としてグラレコ置いておきますね。というイメージ。
ツイッターじゃない、フェイスブックでもない、電子状でなく物理的に感想を押し付ける、投げられる絶好の機会だったということです。
遠巻きに記録用として眺めてた方、いませんか?
書かなかったみなさん、後悔してください。多くの登壇者の方が「伝える」について話した後にことを。そして何かしらでアウトプットしましょう。
あなたはオーディエンスではないです。
どんなに運営が頑張っても、レコーダーが頑張っても、最後に皆さんが一歩行動してくれないと純粋に描いたものが壁画のような扱いを受けてしまうの悲しいという要因も大きいので自分もこのカンファレンスを作る一角を担ってるんだという思いで来年はより多くの人に参加していただきたいです。
今年でも多くの方が参加してくれましたが貪欲に、来年は参加者全員が何かの思いをぶつけざるをおえないようなレコーディングをしたいですね。
まるで全然書いてくれる方がいなかったみたいな文ですが実際には多くの方に思いをぶつけていただいています!感謝!
そして書いていただいた付箋を何個か(勝手に)抜粋しました。
ブランド観点でデザインする
いくら使い勝手が良くても心に残るものがなければすぐに別の使いやすいものに変わるんだろうなあ
プロトタイプの途中でもガンガン公開しちゃうのってクリエイティブ!
社内で協創について話題に上がっていたけどゴールばかり意識してしまっていた!ありがとうございます!
後に続く人たちのために記録を残すという姿勢が素晴らしいと思いました。
越えさせていただきます!
僕のロールモデル!
(エクスペリエンスデザイナーとしてチャレンジしてきた俺の屍を超えてゆけ)
セッションを聴いて改めて医療の抱えるデザインの重要さに気づいた!面白かった!
未来を変えていきたいという想いがすごく伝わってきて胸が熱くなった!応援してます!
デザイナーは言語化が苦手な人も多いけど企業の中では説明が大事、そこはデザイナーの努力によってデザインが浸透するかと!
◼︎思考を止めるな!
一つ前の項目で散々あなたはオーディエンスじゃないんだよということについて語りましたが一方でこういう登壇者の方の話を聞くものって「ああ、すごい、なるほどな!」でおわってしまいがちな気がします。太田さんの話から引用すれば「わかる、はもういい、変える、をはやく」の「わかる」で終わってしまう。有知無能。
ではどうすれば「わかる」で止まらなくなるのでしょうか。私は第1ステップは「思考を止めないこと」だと思っています。第2ステップは「言語化し、アウトプットすること」かなって。そして第3ステップで「語り合うこと」第2と第3は場合によって入れ替わりますが。
私は約1年前からブログを書くようになったのですがものすごくこれを感じます。
結局は自分の言葉で書かないと入ってこないなって。ただのメモであれば、それは自分のわかるではなく、その話した方の「わかる」のままで、自分の言葉で語ることで始めて自分の「わかる」になる。
今回、デザインシップで検索するとものすごい数のツイートや投稿があって、自分の言葉で色々な人がアウトプットしているんですよね。これって登壇者の方の話を聞きながらフルで思考を回転させて、直後に発信したくてウズウズしてる人が多かったんだなと思います。あぁ、登壇者の方想いは伝わってるんだな、「変える」「動かす」プレゼンってこんなにも力強いんだなって思いました。
こんだけアウトプットの大切さを感じながらも私自身、最近ブログをサボりがちでした。しかし今回デザインシップに参加してこの気持ちを昇華させたい!どこかにぶつけたい!という思いがムクムクと湧き出て書きました。
この更新されてない約半年の間様々なことがあって(ありすぎて)一応文章にしてはいたものの、人様に見せられるレベルではなかったのでそっとしておいたスマホのメモ約5000字程度眠っていました。
◼︎わからないからプロトタイプをする話
すごい心に刺さる言葉でした。
誰もわかる人なんていない、だから先に進まなきゃいけない。
デザイナーの強みって
・混沌に寄り添う力
・答えがないものに立ち向かう力
だというふうに言われています。では自分はそれができているかと思うと、できていない。
最近では、わからないから一時停止してそのまま先に進めないということばかりで、停滞気味でした。ついつい答えを求めてしまう、正答はなにかを考えて予防線を張った生き方をしてしまう。
わからないから行動しなくてはいけないんだなあ。
◾︎安全地帯にいる恐ろしさの話
俯瞰して、一歩引いてみることって大切だと思います。事実、私自身も何かをするときメタ視点で考えるように努力しています。
でもそれが一時的に引いた視点で見ているだけだったらいいのかもしれないけど、常に冷静さを装って全てに対して一歩引いた場所で達観しててはいけないなと思いました。
まだまだ私は学生という身分で年齢的にもだいぶ若造ですが、大学という場所においては3年生で、自然とサークル内でもある程度の発言力を持つようになってきました。
するとどうなるか。自分で行動しなくても指示するだけで後輩がやってくれ、仕事も結構後輩へと振っていくようになります。すると必然的に自分はそこまで冒険しなくても勝手にある程度の成果がつくんですよね。もちろん自分自身で行動もしますし、指示が徹底してなくて迷惑をかけてしまうこともありますし、ある程度の責任を負っています。
でも1、2年の頃と比べて行動する頻度は減っています。行動が減ると次の行動にでるときに動き出すのがこわい。そうなってしまえば行動しないでそれ違うよとかいいんじゃないとか言ってるだけで結局自分自身はなにもしないで偉そうにしているということになってしまいがちです。安全地帯からでるのが怖くて、でもでなくてもある程度なんとかなってしまっていて。悪循環を繰り返してます。
前の項目にも関係しているのですがわからないから行動するのにわからないから行動しないへとなってしまうことの方が恐ろしいです。
何事にも野次を飛ばすだけのオーディエンスにならないようにしなくては。
<最後に>
◾︎学生目線で考えるdesign ship 2018
全体を俯瞰してみるとデザイナーのキャリアパスについてを語る人が多いように感じました。
これだけの熱意でデザインの未来を語られて、行動で示されてしまったら、渡されたタスキを受け取らないわけにはいかないし走らないわけいかない。
聞き逃した講演の確認をしてたら更新がおそくなりましたが、この2日間、ものすごく疲れたけどそれ以上に楽しかった!関わった方みなさんに感謝!!
design ship 2019 楽しみにしています。
インターンの面接の行ってきた話
都内某社のインターンの面接に行ってきました。私の予想だと落ちると思いますが個人的に面白いなって思った事があったので書きます。
あと内弁慶なので面接で言えなかったあれこれを書きます。
いつもの通り面接の直接的内容は触れずに面接して感じたことを書きなぐってます。
◼️「デザイン」という言葉の面白さ
デザインって本当に広い。何でもかんでも「設計」が必要だったら「デザイン」って世の人は言うからなん◯◯デザイナーというものが溢れかえっている。
今回面接官だった方は元々グラフィック系の出身でUI設計が得意。対して私はガッツリUXとかの時間や体験のデザインの出身(?)でUIがそこまでできない。
できることが違うのに「UI/UXデザイナー」という応募枠で面接をし、される関係となっている。
なんかこれって面白い。面白くない?
違うことやってるのにUIとUXがまとめられることにより同じ土壌にあげられている。
ふと思った、というより実は常に思ってはいるがなんでUI/UXデザイナーなんだろう。
UIを通してUXデザインをします^^という意味なんだろうけど当たり前なことだと思う。
そこら辺の体験踏まえたユーザーインターフェースなのでは???
グラフィックデザイナーだって、グラフィックレコーダーだってそれをすることによってどういう風に場を動かすかとかユーザー体験をどうするかとか考えてデザインしてるけどグラフィック/UXデザイナーとは名乗らない。
たしかに優れたUIでないと優れたUXはできない。だからUI/UXと言いたいのかもしれない。でもサービス考えるうえでUXがわからなくてもいいというポジションの人はどこにもいない気がする。
似たような響きだからってまとめるべきではないしUIとUXは同レイヤーの存在ではない、と思う。
UIデザイナー、UXデザイナーと分けてくれればいいけど、UI/UXデザイナーとするんだったらせめてUI/UX(8:2)デザイナーとか私はこっち側が得意なデザイナーですよ〜と分かりやすくしてほしい。本来分けるとかそう言うものではないけど。そもそも
ついでに私はUI/UX(3:7)デザインぐらいです。
UI/UXデザイナーと一括りにされてるのにUIメインのデザイナーとUXメインのデザイナーで話が少し合いにくいのってなんとなく面白いと思います。
UI/UXデザイナーをお求めの皆さん、どちらのデザイナーをお求めなのでしょうか。
ミスマッチを減らすためにもUIデザイナー募集かUXデザイナー募集か明確にしてくれると学生としてありがたいです。ガチでUIが出来るUXデザイナー、UXがめちゃくちゃわかるUIデザイナーを本気で募集してるならUI/UXデザイナー募集でもいいけどそうでなければどっちを絞ったほうがお互いハッピーなのでは
?個人的にUI/UXデザイナーを募集している企業の8割くらいはUIデザイナーを求めている気がします。
◼️デザイナーは何者か
私の中の永遠の謎「デザイナーは何者か」問題
「プロダクトの設計をする人」「Webの画面偏移を考える人」「アプリのUIを設計する人」「その場の設計をする人」「人の動きを設計する人」「人の思考を誘導する人」「価値を設計する人」
幅広すぎて世の中のことの6割くらいはこじつけでデザインにできる気がする。ブログだってこれを見て読者がどう思うか考えて書いてればもう立派なデザイン!!!このブログについてはそんなこと全然考えてないけど。
自分の人生を設計したら立派ななデザイナーだね😉
なんかこうなってくるとすべてのことはデザインだっ!みたいになってくる。なんか上から視線でムカつくな〜って最近思ってます。
デザインという言葉が便利すぎる。でもたぶんこんな風にデザインデザイン言ってるのはデザイナーだけなのかもしれないとも思う。
社会に出てない人間だからわからないけど。
ここまではデザインの領域!!!と線を引く必要はないと思うけどなんか何でもかんでもデザインって言い過ぎではないですか?
「デザイナーとは何者か」というのがどんどん曖昧になって言っている気がする。
私は一体何者なんでしょうね!
とはいっても肩書きにこだわる必要はないと思うので「デザイナーとは何者か」に対して「形式上デザイナーと名乗ってはいるけど別にデザイナーという肩書きにこだわりはないし今やってることがたまたまデザイナーという枠に当てはめられてるからデザイナーで〜す」という気持ちも正直ある。
メタ的に考えると「デザイナーとは何者か」の答えは「何者でもいいじゃ〜ん」かもしれない。
◼️個人的な共創と当事者デザインの考えのまとめ
共創デザインってなんだろう。当事者デザインとかCo-creation とかなんか言ってるけど。今時代が混沌としてるし先駆的な状態だから仕方ないけど一つの事柄の対して色々な名称があったり一つの名称に対して様々な意味があったりするの勘弁してほしい。
ただでさえごちゃごちゃしているのにこれ以上混乱させないでくれ!!!と思う。
閑話休題、私の中での共創というのを一旦まとめておこうと思う。
共創とは
自分一人でとか似たような人が集まっても新しい考えはでないよね。違う考えの人と刺激を与え合うことで共に創っていこうね。
そのために
①違う考えを受け入れる
②自分の考えを臆せずに言える
つまり環境を作ることが大事だよね
ということ。
でその中身は大きく分けて3つあって
a.ユーザーの意見を取り入れてユーザーと一緒にサービスを開発する組織(例:Blabo、ユーザーが商品の企画会議にプランナーとなり参加できる)
b.他の部署や企業と一緒に、多方面からの視点を取り入れたサービス開発を行う組織(企業横断型のサービス開発とか、産学協同とか?)
c.企業とか関係なく他人に教え合う、教わり合う関係の組織(地域コミュニティとか?)
でaとbがビジネス的共創でcがコミュニティ的共創
こうなると当事者デザインと共創は似ていてちょっと違う。
当事者デザインは
当事者意識を持ちましょう!!という感じ。
例えば
WSとかだったら参加者じゃなくてそのWSを一緒に作るんだ!みたいな
供給を受ける側ではないんだよという感じが一つ。
あとサービスとかを作るとしても作る側がユーザーに対して共感しないとユーザーに寄り添ったサービスは作れないよ。その「共感」を持つためにサービスの作り手としてじゃなくて当事者としての意識があるといいんじゃない?
と言う感じだと勝手に解釈してる。
まあ簡単に言えば他人事として何かするより自分事として考えた方が楽しいし深く考えられるよねということ。かな?
じゃあ自分事として考えるためにはどんなことすればいいんだろう?となった時に3月ごろにやったWSのように様々な物事に対して「着眼」して「解釈」する。
なんでこれが自分事化につながるかっていうと日常的にに行うことで自分と色々なものとの「関係性」が深くなってそれによって自分事化しやすくなる。から深く物事を考えやすくなる。のかなぁ?と思う。
なんか全部大事なんだけどなんだかレイヤーが違う気がする。共創をするために前提として当事者デザインである必要がある?というような?
なんかそう解釈するとスッキリした。
自分の中でうーーんと思ってたことがこうして書き殴ることでスッキリする😊
色々な会社へ訪問してきた話
【2018.05.23色々な会社へ訪問してきた話】
5/23に先輩方が就職した企業に企業訪問(?)してきました!!!
話によって書いている時間や日付が違うのでテンションがちぐはぐです。
評価を恐れない話&失敗を恐れない話
ある一定の以上の評価が欲しいと思って何かをするとこれをしたら評価が下がるかも……と行動にうつしにくくなって評価の雁字搦めになってしまうという話
評価を恐れない話と似ている。
若いうち、学生なんて特に失敗したって問題ない。失敗してなんぼとまで言われるくらい。
失敗してそのあとどうするか、失敗をいつ気づくかが大事になる。
グサグサ刺さりすぎる。これ今やったら自分の印象悪くなるかも:;(∩´﹏`∩);:とか考えるよりこの行動をすることでどんなメリットがあるかを考えたい。なんでこの行動をとるのか、この行動をとることでどんな影響がでてどう良くなるのか考えなければ何もできない。
評価ばかり気にしてたら何もできね~~人生もっと楽しく生きよ。
社内対抗勢力の話
社内でトップに実力にまでなると言ったことがまるで全て正しいかのような扱いをされてしまう。それに対して胃を唱える存在となるような部下を育てている話。
数学の答えではないんだから明確な正解なんて存在しないのに。
教員が、先輩が言っているんだからこれがあってる、自分が絶対に間違ってるということはない。経験値やレベルが高いからそっちの方が正道である可能性が高いけど答えは一つではないし方法も一つではない。
教員が、先輩が言ってたからやる、その通りにするというのは楽なんだけど自分から責任を別のところに置きがちになってしまう。
右も左も分からない時に指示を待つのはまだ許されても自分で歩けるようになっても上司からの言葉を助言としてではなく指示として受け取ってしまっていたら自分の先はなくなるなぁと思った。気をつけたい。
タスク管理の話
具体的にやることを事細かく管理すると「なぜ」それをやらなくてはならないのかを考えなくなり、脳死事務処理人になってしまいがち。
細かくするとしてもそれ一つ一つを「なんで」やるのか「誰のために」やるのかを考えてやりたい。
目先のことを考えずにもっと先のことを考えたいね。「なぜ」それをやるのかということを忘れてしまう。ToDoではなくWhy do you do(?)というような?なんか言語化するのが難しい。行動から考えずに何のためにやるのかから行動に落とし込んでいきていこう!その行動の目的を忘れたらダメ。
未来を語る話
サービスを考えるにせよ仕事をこなすにせよ自分の中での軸が必要なんだなと思った。その軸っていうのは綺麗な言葉で言うとこの世界をどういう風にしていきたいかということなのだと思う。大きく言うと「こんな誰かが辛い思いをする世界イヤダ~もっと幸せにあふれた愛に溢れた世界じゃなきゃイヤダ~><」という我儘で強欲な心を持ってなきゃ未来は切り拓いていけないのだと思う。
小さく言えばある特定状況で特定の人が困っているこれおかしいでしょ!もっと良くできるじゃん!みたいな。
こじつけになるが、だからペルソナを大事にしなくてはならない。ペルソナというのターゲットではなくこの世界に住む人間の生き写しなのだからペルソナ幸せにできないサービスだったらこの世に出た生身の人間を幸せにできると思うなよ?というような。
UXデザイナーがUXがわからない話
「UXデザインの良さが上司や社内に伝わらない~><」ってそれお前上司のUXをデザインできてないんやで~と言う話。社内でUX><と言う前に上司にすらわからない状態でUXが必要です!とか喚いてるんじゃねえぞ!上司の体験すらデザインできてねえじゃねえか!それでユーザーの体験をデザインできると思うな!!!と言う話(過剰に書いてます)
心に刺さりすぎてつらい。私は以前家族に月1で東京に遊びに行っている女だと思われている話をした。これって上司がUXわかってくれないんですよ~><と同じ状況なのだと思う。
現状、家族にろくな説明もせずに「ふぇぇ……家族が私のことを遊んでる女だと思ってる……っらぃ……」と言っている状態だ。家族全員がUXを常に考えてますというような風にならないにしても自分がどんな勉強をしているかくらい説明してわかってもらえるくらいには言語化できるようにしたい。
というよりそろそろ家族に説明できるくらいにならないと「あの子バイトもろくに入らずに遊んでばかりで就職大丈夫かしら……」と心配されかねない。冗談ぬきで。
HCDの話
前回ジョブ理論のセミナー受けて自己解釈で色々書きなぐりましたが色々な方のお話を聞いたり読んだりしてすこし頭の中が落ち着いてきたのでまた後日まとめます。
簡単に言うとみんなでHCDを基盤に色々な方向から豊かな未来(なんだかいやらしいけど言葉が見つからない)にアプローチしてるんだなって思いました。
前回のやつはいろいろ変なこと書いてて生き恥感はありますが生きている限り毎日恥みたいなところあるのでそのまま修正せずにいようと思います。己の恥に向き合います。
色々な所へ行ってインプットしてブログだと好き勝手まるでわかったかのような口ぶりで書いてるけどまだアウトプットできてません。サービスとかとして形にできるものとして何も完成してません。でも6/1に静岡で中間発表はします!!8月ぐらいには完成形を東京で発表します。
イキリブログを書く遠藤のアウトプット結果とは!!乞うご期待!!!
余談
久保田とくすんだキキララコーデで午前中にたいやきを食べてきました。語彙力がなくて食レポはできないですが皮がパリパリであんこが小豆の味がすごくて美味しかったです。
『ジョブ理論』早わかり実践セミナーに参加した話
【2018.05.18なぜ、人はミルクシェイクを「雇う」のか?クリステンセンの『ジョブ理論』早わかり実践セミナー】
杉田先輩が所属するIMJさんが主催したジョブ理論のセミナーに参加させていただきました!!
今はジョブ理論だ!!!ジョブを見つけろ!!!っていうけどジョブ理論ってなんなのさ!!!UXDと結局何が違うんじゃ!!!!!!ユーザーのニーズとジョブって何が違うんじゃ!!!!という思いの元今回のセミナーに足を運びました。
(5/18時点で講師である樽本先生のUXリサーチの道具箱をまだ読めてない状態ですのでそれ本読めば答えあるよという内容も書いてある可能性があります)
UXとジョブ理論は同レイヤーの話ではない!!!!
UXDの中にジョブ理論という考え方があるんだ!!!
という感じで落ち着きました。
■人が何かを新たに始める時の仕組みの話
不満と期待
惰性と不安
これが互いに引っ張りあって買うか買わないかを決めるという話。
よくよく考えれば当たり前だがこうやって言語化されるとなるほどなと思った。
あれっこれってバリュープロポジションマップと似ているでは……?
ペインとゲイン
ペインリリーバーとゲインクリエイター……?
ちょっと違うけど.....
要するに人が何かをするときにはそれをするのに求めていることがあって(=ゲイン=期待)一方でできない理由があって(=ペイン=不安)それに対してそれぞれ対抗策が必要(不満に対する対抗策=ゲインクリエイター、惰性に対する対抗策=ペインリリーバー)ということ......?ゴリ押し感は否めないけど......
ここでテレビショッピングの例が出てきた。
「不満=お掃除するのにコード邪魔ですよね!」
「期待=軽くて持ち運び楽々!」
「惰性の打破=今なら掃除機下取りサービス付き!」
「不安の緩和=30日以内なら返却OK!」
≈
■ジョブとニーズの話
ジョブ視点でユーザーのジョブを見つけよう!とかいうけどジョブってなんじゃ!!UXでいうニーズと何が違うんじゃ!!!とモヤモヤしてた。
ジョブっていうのはUXの手法でいう上位下位法の行為欲求と本質的欲求の部分になるらしい。ニーズっていうと表面的欲求もニーズになってしまうけどジョブになると「何を解決するためにその行為を行ったのか?(=なぜそのものを雇用したのか)」ということらしい。つまりニーズの中でもより本質的欲求しますに近いものがジョブ(?)ということ(?)
まあ何が言いたいかというと結局ジョブもニーズも大して変わらない。言語が違うだけ。
■UXデザインとジョブ理論の話
ジョブ理論と比較するのって「上位下位分析法」とか「親和図法」といった手法であってUXDという考え方ではないのだろうなと思った。
ユーザーの本質的欲求を抜き打ちたいんだったらインタビューして上位下位で分析すればいい。あなたの本当になりたい姿、叶えます。
逆に競合はどこかリフレーミングしたいのならジョブ的思考で考えればいい。あくまで競合を洗い出すためであってそこから新たにサービス開発しようと思ったらまたもう人ステップ踏む必要がある。既存のサービスがあることが前提でそこから発展させていきましょう!
ジョブやニーズを求めるということは同じであってもそれを何のために使うかは違うのかな。
たどり着くまでの手段が違うだけで目的地は同じ。
結局は手法によって用途は違うよね!という程度な気がする。
■製品スペックとジョブスペックの話
結局はこれってUX言語でいう機能と体験(=シーン、ストーリー)なんだと思う。
ユーザーにとってジョブスペックがクリアしてなければ製品スペックを気にするまで行かない。
ユーザーにとっての目的をクリアできなければどんなに機能が優れていてもそのものを購入することはない。
より優れた体験をするためには優れた機能がなくてはならない。いかに優れた機能があったとしてもそれが求める体験と一致しなければ優れた体験にはならない。
ほぼほぼ同じ(?)
■遠藤的ジョブ理論で考える強み
ジョブ理論を考える上で絶対に市場の把握が必要。なぜなら同種のプロダクトでしか解決できないことはそれはジョブではないから。
つまりジョブ理論で考える時点で従来の考え方(=同種との争い)から離れることになるため、市場のリフレーミングができる。
必然的にビジネス的な視点が入る。
→既存のものの視点のリフレーミング
今までのUX(調査、分析、コンセプト......)
あくまでユーザー中心
だから競合はどこ?とかこの領域なら勝負をかけられるみたいなビジネス的視点は抜ける。
■感想
この1時間程度のWSでジョブを見つけ出して新しくそのジョブのためにどのようにアプローチするかということが(浅いながらも)できてしまったことが本当に悔しい!!!!!!普段私たちはあんなに時間をかけてユーザーインタビューして分析してようやくニーズ抽出してアーーーーーこれ本当は本質的欲求じゃなーいウワアアってなりながらやってるのにこんな短期間でできてしまったことが悔しい!!!!!!!!悔しい!!!!!
でも今回こんな風にWSで結構サクサクできたのってこのセミナーに参加してる人が普段からUXデザインに携わってる人でモノじゃなくてコトをベースにした考え方ができているからなんだろうなとは思った。
ジョブってのは結局のところUXデザインの手法のバリュープロポジションマップの右の一部であり、現状の可視化でしかない。
でも現状(ASIS)を理解してない人は未来(TOBE)は作れない。その現状を理解するための手法の一つとしてのジョブ理論。
私の中でジョブ理論が破壊的イノベーションの足がかりだ!!!と言われて本を読んでもあまり「それ予想外!!!めっちゃ以外!!!」とならなかった。逆になんでこんなに「新時代のバイブル」みたいな扱いを受けているんだろうと疑問に思ってた。
その理由ってただ単に自分が知識不足でジョブ理論をうまく咀嚼できてなかったからかなと思っていたけど、ジョブ理論の軸である「ユーザーはジョブを解決するためにものを雇用する」という考え方が私に中で「そんなの当たり前じゃん」という風に思ってたからかもしれない。
UXの視点で考えれば「コトベース」で考えることは当たり前なわけであり、製品スペックが優れてる!と言われてもそれユーザーのニーズにあってなければ意味ないという風に思うのは自然だ。
よくよく考えればジョブの考え方ってUXDの手法の一つなんだからそりゃそうだ。
普段からユーザーの本質的欲求はなんだ!!というのを普段からやってれば「えっ!製品スペック考えてれば売れるでしょ!出来が良ければモノは売れるん時代はもう終わっちゃったの??」と衝撃を受けるわけがないんだよなぁ。
もちろんマーガリンの競合がオリーブオイルだと言われて「そういう捉え方があるのか!」とは思う。でも「まあニーズが同じなら競合になりえるのは当たり前だよな」という風に考える。
なんだかスッキリした。
ジョブ理論の考え方というのはあくまでUXDの手法の中のバリュープロポジションというよりビジネスよりの手法の中にある「ジョブ」という視点から同じジョブを持つもの同士は業種は違っても競合相手になりうるよ。そのこと忘れてサービス開発してるとどれだけ業界シェアが大きい会社でも知らない間に別の業種に喰われるから気をつけろよということなのかなと思った。
ジョブで考えてイノベーションを起こそう!というのはそうなると少し違う気がする。
イノベーションを起こしたサービスは全てジョブを捉えているというだけでジョブを捉えただけではイノベーションは起きない?。
ジョブを捉えるのはあくまでASISでイノベーションを起こすためにはTOBEを考えてある必要がある。
でもTOBEを考えるためにはASIS無しでは語れない(現状を知らずに未来を語るなということ)
そのASISを捉えるのに「ジョブ」という視点があるよ!というだけなのかな。
色々な方面から怒られそうだ。
UX的思考をビジネス向けに翻訳してわかりやすくしたのがジョブ理論で元々UX畑で育った私はそれをまたUX的言語に再翻訳してなるほどねとなっている感じだった。
あくまで遠藤の自己解釈なのでその解釈違うよという人はぜひコメントや遠藤にメッセンジャーを飛ばしてくださると幸いです。
今回の話とは全く関係ないのですが数年ぶりに逆方向の電車に乗り間違えました。
午前中に早めに六本木付近に行って麻布十番らへんをウロウロ練り歩こうと思ってたのに新宿駅で迷い大江戸線で逆方向の電車に乗ったせいでめちゃくちゃ時間ギリギリになってとても悲しかったです。前日の夜にどこらへん歩こうかウキウキしながら計画を立てていたこともありより悲しみが深いです。
DMMの草たちから発せられる(?)マイナスイオンに心を癒されました。
来週もまた東京に行く予定があるので都内散歩チャレンジしようと思います。