UXデザイン概論に参加した話
UXデザイン概論(2018年HCD-Net東海UXデザイン連続セミナー STEP0)に参加してきました。
稚拙な言葉になりますがUXについて改めて捉え直すことができました。
また、懇親会では大学で忘れかけていた人間の温かい愛情にふれホロリとくるものがありました。
◾️講座内容について
UXD概論ということもあり内容としてはUX、HCDの基礎的なことでした。
普段授業やプロジェクトでやるときは「手法としてのUXD」なんですよね。言葉がきついかもしれませんが「形式的UXD」みたいな。
どこかにもちろんユーザーの嬉しさはあるんですが、サービスを完成させるための手段、考え方としてUXDがあるというような感じ。
本当の目的はサービスを完成させることではなくサービスを使った結果ユーザーがどうなるかなんですけどね。どんどんのめり込んでしまうとユーザーにどのようになって欲しいのかが疎かになってしまいがちで「ユーザー体験デザイン」の「ユーザー体験」が薄くなっていくぞ🤔というような。過剰表現するとこの手法でやったんだから絶対このニーズは間違いないよ!手法でやったんだから間違いないよ😉となりがち。このままいくと失敗に気づけない哀れな自称UX/UIデザイナー(笑)まっしぐらなので「どうなってほしい」を常に軸に持てるように頑張りたいです。
◾️機能と体験の話
機能と体験の話がありましたが優れたインタラクションには優れたUXは必要ないけど逆は絶対にありえないみたいな話をどこかで聞きました。結局は機能が重要なんじゃないの?みたいな質問がありましたが全てはこれに終結するのではないかなと思います。全く関係ないですが私のバ先にはどちらもないです。
◾️UXデザイナーは時間を扱うスペシャリストである話
UXデザイナーは時間を扱うスペシャリストという言葉がなるほどなぁと思いました。
体験をデザインするというと瞬間的UXをデザインすることに気を取られがちになり、結局は機能中心になってしまう気がする。
ここの時間とはユーザーとサービスの文脈を表している(と思う)のですが文脈を読み解き、再構築するなんて言われたら何言ってるんだこいつ??という感じですし。
そのサービスに関する一連の時間を総合的に扱うとなるとなんだかわかりやすい気がします。今度家族にお前学校で何してんだと聞かれたら「時間をデザインする勉強をしてるよ(シャララン......)」みたいに言ってみようと思います。流石に中身省略しすぎ感はありますが。
UXを勉強してる、仕事にしてるみなさんの親や家族から 「お前何してるの?」ときかれたらなんて答えてるんでしょうか。前は営業って答えてるという方はいらっしゃいましたが。
◾️死なないペルソナの話
山崎先生は何人かのしっかりとしたペルソナを何度も使い回すという話。
確かに企業とかのユーザーがある程度絞れるのならその方が効率的です。
私はペルソナ大好き人間なので何かサービス作るときに絶対に「あ〜こいつのこと絶対に幸せにしてやりて〜。こいつにもっと豊かな人生送らせてやりて〜」と思いながら考えてます。言葉にすると物凄い上から目線で正直自分でも引きました。
ペルソナに対する愛情だけなら自信があります。
一方で妄想ペルソナになりがちなんですよ。一応調査して分析した結果からペルソナを作るのですが地に足ついたペルソナなのか自分ではわからない。ゴールであるペルソナを信じきれない!どうすればいいんだ!!!!
自分が信じきれないせいで何人ものペルソナを殺してきたんだと思うと涙が出ます。京子……由紀……殺してしまってすまねえ……
ペルソナ連続殺人事件だよ……
ちゃんとゴールとしてのペルソナを作ることを胸に誓いました。
色々と質問したいことがモリモリあったのですが質問タイムでは別件で心が折れ、懇親会では気の高まりのあまり聞き忘れるというゴミオブゴミみたいな状態でしたので今度お会いできたときに聞いてみたいと思います。
ところどころで発せられる安藤先生のパワーワードがとても面白かったです。
◾️世界をもっと愛に溢れた世界にしたい話
誰にも褒められなさすぎて10秒褒められただけで号泣する自信があります。
最近の若者は自己肯定感が低いとか言われがち(当社比)ですがそれって絶対他人から褒められないからだと思います。
褒めるときは影で褒め合い(本人に届くことは基本ない)家族には最低でも月一で東京に遊びに行く女だと思われ特別誰からも肯定されることなく生きてきたのでほんとよくよく考えるとこんな環境下で今までやってこれたなと思います。
もっと他人を褒めて愛に溢れた世界にしましょう。
絶対1日1回は他人を褒めた方がいいし他人に感謝の気持ちを述べた方がいいと思うんですよ。私自身も何か他人から施されたときは「すみません」ではなく「ありがとう」と言えるような人間でありたいです。そして私の周りをもっと愛に満ち溢れた世界にして私を幸せにしていただきたいです。
そして愛とメンタルの強さと意識の高さを装備して就活に挑んで行きたいと思いました。
(安藤研の展示会を見に行った後も同じようなことを言ってた気もします。)
◾️懇親会の弁解の話
懇親会で物凄いはしゃいでたのですが弁解をさせていただきたいです。
お酒が入っていたのもありますが本当にUX王子大好きミーハークソ女みたいな行動ばかりして本当に申し訳ないです。
私はめちゃくちゃ安藤先生大好き人間なのですがしっかりと理由があって(?)好きです。
顔が好き!!!とかそういうのではなくて、私と久保田が愛を取り戻した(?)場所が安藤研の展示会なんですよ。
私たちに足りないものは何かってなった時に答えが愛だったんです。
なんかこれだけ読むと勝手に安藤先生に愛をもらったと勘違いしてる夢女みたいで自分でも笑いました。
心が荒んでた時期に安藤研の展示会に行ったのですが、安藤先生が自分の学生のサービスの良いところをプレゼンしてるんですよね。物凄い衝撃的でした。もちろん自分自身が自分のサービスを愛してあげられることが一番なのですがやはり自信が持てないんですよ。なんかそこで指導者がここが良いって肯定してくれるのって学生にとって物凄く自分のやったことは間違いじゃなかったんだって安心できますし自信になるんですよね。そんな風に失敗恐れてるから成長しないんだよと言われたらそれまでですけどね。
まあ安藤先生が前に展示会のUX設計は慣れてるんですが〜みたいなことを言われていたので来場者がそういう風に思うことまで踏まえた上での行動なのだとは思いますが。安藤先生の手のひらの上でコロコロされてます。きっと勝手にコロコロしてるふしもあります。
でも安藤研の展示会に行った結果感動しすぎて同級生と夜ホテルで付箋に自分のサークルの展示会との比較を書き出して来年はこうしようみたいなことを似非KJするくらいにみんな衝撃受けたのは事実です。
まあそれを踏まえた上でも今回懇親会での行動は本当に反省しかないですね。羽生結弦を前にしたファンみたいな感じでした。なんか本当に実力のある先生に対してアイドルのようにキャーキャー言うのは如何なものかと昨日の自分を叱りたいです。
これからは節度を持って生きていこうと思います。
以下今回のセミナーの内容自体とは全く関係ない私のグラレコに対する独白になります。
私はグラレコアンチ過激派なのでグラレコファンの方は読まないほうが良いと思われます。
◾️なぜ私がグラレコアンチかという話
サークル内ではグラレコアンチ過激派として名高い(?)私ですが一回どこかでなぜ私がグラレコアンチなのかを描いておきたいと思ったのです書きます。アンチと言いながら何だかんだグラレコと関わりは持っていますが。
私がグラレコを何となく好きになれない理由として何個かあるのですが
「描けてないのにもてはやされる」
本当にこれが嫌なんです。
決して何でアイツ全然描けてないのにあんなにもてはやされてるんだよっていう感じではないです。
私自身が描けない人間なのに完成するとなんとなくそれっぽく見えるから「すごい!」「一目で内容わかる!」「写真撮らせてください!」とか言われるのが本当に苦痛なんですよね。自分が質の低いグラレコを描きがちなことがわかるから特に。
ならはやく描けるようになれっていう話ですが。
女子大生が頑張って描きました><ということに価値があるのかなと思いがちです。実際のところそうなんだろうけど。
ぶっちゃけた話なんちゃってグラレコ、それっぽいグラレコって誰でも簡単に描けるんですよね。カラフルでいい感じにイラスト描いていい感じに背景色で分割すれば誰でもそれっぽいものは描けるんですよ。構造化されてるか、話の主旨がおかしくなってないかとかを考えなければ。
あと登壇者についてきてる?とか心配されるグラレコとか最悪だと思ってます。円滑に進めるためのグラレコ/記録用としてのグラレコがスピーカーの邪魔をするってあってはならないと思うんですよ。
こんなグラレコして価値あるのか?と思います。
そして何がつらいって自分が今あげた条件をほぼほぼコンプリートしてるんですよね。
これらをできる人が身近にいて、なおかつ自分は全然できないなんて状況なら根暗ひねくれクソ女ならアンチになるのも仕方ないと自分自身を擁護してます。
逆に言えば構造化されてて話の主旨が伝わりやすく、わかりやすく、紙の周りに集まって自然とディスカッションが生まれるようなグラレコならそれはもっと奨励されるべきであると思います。そんなレコーダーは日本に何十人いるか知りませんが。
まあそんなこと言ってたら新しくグラフィックレコードをしたい人を全否定することになってしまうんですけどね。
グラレコの繁栄と共にジョウヨウ女子大()は栄華を刻んできました(?)が常葉のグラレコの衰退によりどう変化して行くのでしょう。もしかしたらグラレコ4.0みたいなことが起こるかも!言うだけなら自由!!乞うご期待!!
補足
グラレコアンチって言ってますがグラレコが嫌いなわけではないです(?)
主催者がなんのためにグラレコと一緒に会場を作り上げたのか、どのように利用したいのかなどがしっかりと定まっていて、なおかつレコーダーがそのために描き上げている場合のグラレコは大好きです。ただ単に聞いたものとプレゼンデータをレコーダーが何も咀嚼をせずに描いてしまったらそれはどうなんだろう?というだけです。
こんなにグラレコのこと野次飛ばしてますが私は本当に描けない人間なので常にビクビクして生きてます。
ネタで言ってたグラレコ4.0ですがもしかしたら本当に起こるかもしれないです。
いつかブログに書くかも!
Xデザインフォーラムに参加した話
いつもの2.7倍くらい文章が散乱してます。
今回のデザインフォーラムで個人的にキーワードだった言葉が「楽しむ」だ。
◾️本質の追求を楽しむ・答えを探すことを楽しむ
定期的に外に出ないと忘れてしまう!学内にひきこもてたらついつい作業ベースで物事を考えてしまう!!!!
学内にいるとデザインすることが作業になってしまい、よくわからないけどこれをやらなきゃいけないからやるとなってしまう。怠惰の脱却を目指して。
定期的に自分は何をしたいのかという問いを投げかけてその答えを胸に抱きながら行動したい。
こういった刺激を受けないと気づけないし動けない自分が悲しい。
問いを持ち続ける
問いを更新し続ける
つまりは自分も更新し続けなくては!!!!
メタな視点ミクロな視点を行き来する?
問いが学びや思考を深くする?
パラレルな視点を持つ?
どれも全然できてない!
◾️学びを楽しむ
学ぶことって本来楽しいことだよね。能動的に学ぶと楽しい。受動的になると苦しいだけだけど。教育の場における学びの苦しさってここなんだろう。受け手の立場に身を置き続ける限りは楽しい学びなんてできないだろう。逆に言えば「やりたい」と思って動けばたとえしんどいことでも「楽しい」と感じられる。某大学にいるとついつい受け手に周りがちになってしまうので気をつけなければ。
友人の話や新校舎が建った某大学の環境に身を置いて定期的に思うのが、おかしいことをおかしいと言えない、思えすらしないって何事?そんな風潮は一刻も早く滅びてほしい。
そんな社会と抗うという決意を胸に抱き頑張って生きていこうと思った。
◾️Unlearnという言葉
学び直しとは違う、今までの古くなった考え方は壊して、新たに創造しながら学ぶということ。
今まで積み上げて来たものを壊すってためらってしまうんだろう。自分はまだ積み重ねる段階だからわからないが。
積み上げたものを速攻で壊せる人間になりたい。
◾️午前の「問い」のWSの話
個人的に消化不良〜という感じで終わってしまって悔しい!
こういうWSでもなんでも最後に無理矢理にゴリ押しちゃうからなんとなく形になっているけど今回の本題である「問いを更新し続けられたか?」という観点からいくと弱かった気がする。他人の意見に対して「あぁ!なるほど!そういう考え方もあるのか!」となって終わってしまう自分の未熟さが悲しい。次の「それってこういう風にも考えられるのでは?」にいけるだけの頭の柔らかさを身につけたい。あと常に何のためにこれをやっているのか?を忘れずに行動したい。順序に囚われないようにしたい。気をぬくと作業する癖をどうにかしたい。切実に。
◾️ポスター発表のについて
自分のプロジェクトが甘いばかりにあまりサービス内容に「ダメ出し」されなかった。もっと殴られる覚悟で行ってたのでなんだか拍子ぬけてしまった。それだけ十分な説明ができなかったということで己の未熟さを突きつけられ悲しみが深い。「ここよくないよね」「こここうした方がいいんじゃない?」と言ってもらえるようなサービス(とわかりやすいレイアウト)が作れるように自分のランクをあげなくてはと改めて思った。
前までは様々なことに対して怒ってましたが最近では怒りを通り越して悲しみを抱くようになり嘆きすぎて嘆きの遠藤になりかけていてとても悲しいです。
ヤマケン展とアンドウケン展示会に行った話
▪️デザインの力をもうちょっと信じてもいいかなと思った話
なんか今までデザインは手段としてすごく便利(?)なものだなという思いはあったけどデザインが好きかと言われると別にそこまで......という感じであった。
決して嫌いなわけではない。でもすごいデザイン好きなんです!ほんとにデザインで世界を変えられる!という風な人や会社に出会ってきたがそれと比べると別にそこまで……という感じでなんだか引け目を感じてた。
今デザインをやってるのは好きだからやるというよりも手段としてデザインがあってそれが効率的(?)で自分が何となくできるからやっているという感じであった。
でも今回「デザインの力で人と人との摩擦を減らす」ということを聞いてなんか自分の中でストンと落ちるものがあった。
なんか言葉にできないけど落ちてくるものがあった。確かにデザインの力で問題解決はできるんだなっという感じ(?)
デザインは役に立つんだなというような(?)
ただキレイ、カッコいい、だからなんか見てて心地よいみたいなことじゃなくてこのデザインには意味があってそれによって何かが変わって行くというような(?)
デザインの力で世界がちょっとだけ幸せになる。
先日観劇した舞台のカーテンコールでキャストさんが言っていた「目標は世界平和。そのために自分の演技を見てもらってまず来てくれたお客さんに幸せな気分になって帰ってもらう。」という言葉が印象的であった。
世界平和というと仰々しいけど、まず目の前の人、サービスを使ってくれる人をデザインの力で幸せにするというのも世界平和なのかなと思った。
デザインってなんだか嘘くさくてよくわからない気がするけどもう少し信じてもいいのかなと思った。
▪️アンドウケンとヤマケンとミライケンの話
並べるな畏れ多いという感じはある。
・サイクルのスパンとフィードバックの話
フィードバックがあるのはいいなという風に思った。こういう意見があったのでこう改良しました、みたいな。当たり前なんだけどミライケンって全然それできてなかった。全然サイクル回ってないやんけ~。回って2周目でゴール程度。もっとサイクル回そうと思った。その為にはスパンを短くする必要があるなって。半年で1サイクル最長で1年間で1サイクルとか遅すぎでは?長くても2ヶ月で1サイクルぐらい回さないと全然ブラッシュアップされていかないなと感じた。
・実物、触れるものがないこととフィードバックの話
ミライケンのダメなところってものとして完成する前に結局終わってしまうということが去年から言われていたが改めて痛感した。
こういうことができるんじゃない?という提案してもそれ提案止まり。実際に動くものもない。見るものしかなければフィードバックの質も下がるよな~と思った。
せめてアプリUIぐらいは動かそう!
プロトタイプははやくしよう!
手を抜けるところは手を抜こう!
とにかくはやく物事を進めよう!
・ふわりんコンセプトの話
インタビュー下手くそ芸人がインタビューすると切片化した付箋の質が悪すぎて良いインサイトが全然できない!!そんなことインタビューする必要ないやんけ!!てなってしまっている。そんなんだもんでふわりんコンセプトになってしまう。調査手段としてもっと人の根源に迫れるようにしなきゃなぁと思った。
・問題解決じゃなくて場を取り持つためのデザインの話
問題は解決されなくても問題を中和するためのデザインってなんか良いなと思った。穴を埋めるんじゃなくてその場を乗り越えるためのデザイン?
もちろんその問題自体を解決するのが一番良いんだけど場合によってはそれができるとは限らないし、求められているとも限らないなって。もし求められていにのにごり押したら善意の押し売りになってしまう気がする。
さじ加減が難しいなぁと思った。
▪️関わりのデザインについて勉強したいなと思った話
とくにまだ何も決まってないけどなんか深く学びたいなと思った。
先日名古屋のFWで結局関心を持てるかどうかなんて自分がそれにどれだけ関係性を感じているかなんだなぁということをなんとなく思った。
そして昨日今日とヤマケンとアンドウケンを見てなんか自分のやりたいこと研究したいなと思った。
今までは何すればいいかわからなくて結局待ちで与えられるものをこなすという感じだった。
与えられたものだからそんなに入り込めないし結局は形としてUXの手法をやっとくみたいな節があった気がする。深めたいから何かをするというよりはプロジェクトを終わらせるためにやってるという感じで。
そう思いながらも何やりたいか自分でもわからないから流されるみたいなみたいな。
まだ何も決まってないけど。
情報デザイン研究会@名古屋
【情報デザイン研究会@名古屋】
2/26,27に開催された社会実践型ラボラトリーIn豊田に参加させていただきました。いつもの通り色々と思うことがあったので書き連ねました。
2/26覚王山まちあるきフィールドワーク
体で感じて「着眼」し「解釈」する。
本能の赴くままに覚王山を地図を片手にあるいた。
GPSをつかってグーグルマップに目的地へと誘導してもらう生活に慣れた私には地図を片手にどこなのか迷いながら本能のままに歩く体験は新鮮であった。
紙面の地図を持つことで発見をすぐに地図に書き込め、その時の思いをすぐに止めることができた気がする。
町に散りばめられた痕跡を見つけ、それをつなぎ合わせて勝手に解釈して昔はこんなことがあったのだろうと想像することは目的地に着くことだけを考えて動く時には絶対味わえないものだと思った。地理は歴史を物語るなと感じた。
個人的になんでも頭で考えがちで何か変なものや建物があると理屈を求めてしまいがちであった。勝手に解釈して自己満足して終わる。歩いている間はもっと頭を使わずに動いてもおもしろかったなと終わってから思った。
2/27足助屋敷
五寸釘を叩いてペーパーナイフを作った。
自分が貧弱ゆえにかなり手伝ってもらいながらの作業だった。完成して帰ってきたときしっかりと形になりながらも己の叩いた面影があり感動した。8歳ぐらいまで育てた実子をいたしかたない理由で養子に出し、24歳ぐらいに立派な大人になって帰ってきた気分になった。(そんな経験はないので実際そうなった時にどんな気分かはわからないけど)
帰ってから時折眺めたり自慢したりしてへへへってなってなる。やはり我が子はかわいいものだ。
わたしとあなたの関係性について
私と街の関係性
普段変な道に進もうとしても自分の中の規制や他人からの規制によりいけない。
本能のままに動くって楽しい。
知らない道を歩くだけでも楽しい。
知っている道だとしても音楽を聴きながらスタスタと歩くのと一歩一歩風景をみながら踏みしめて歩くのだと全然違う。
1年ほど前に友人の家へ向かうのにあえていつもの道を選ばずに最初にグーグルマップをなんとなくみてその後はノリと感覚で歩いたことがあったが、道が2本ほどずれただけで住宅街だったりとか。
子供の声、猫や鳥の鳴き声、電車の音、暖かな陽射しやご飯を作る匂いなど同じ住宅街であっても家の近くとは違ったり五感で味わいながら歩くとなんだか心が豊かになる気がする。
今回歩いたのは主に視覚情報から行きたくなる道を無条件的に選んでいた気がする。
と終わった直後は思っていたがカメラロールを見て坂の写真を見てもそこまでトキメキがないというのは視覚以外からも魅力を捉えているのかたと思った。
ただ坂だから登りたい、降りたいではなくて色々な要素が複合的に合わさっているのが良いのだろう。その空間と私の関係性に何かあるから引かれるみたいな。言葉にすると当たり前だ。
何か関係性を見出す。
でもこれってルーティンで行動してると無意識になって関係性を感じられなくなってくる。意識することで関係性に気づいてひかれてしまう(?)
自分と周りの関係について少し意識するだけで世界は変わって見えるのかもしれないと思った。
今回街を歩いていて私は街と私というより街と歴史を無意識的に意識して歩いていたがその歴史に興味を持つ私という点で私と街は関係性を持ったのだろう(?)
私とペーパーナイフの関係性
足助の鍛冶屋で刃物製作が終わった後に安武先生が自分が作ったものに愛着が湧くのは当たり前だってようやく気づいたみたいなことを言っていた。当たり前は当たり前なのだがなんで愛着が湧くのだろうかとなったとき、それはそのモノとの関係性がより強いからなのかなと思った。その関係というのは作るまでのストーリー、思い入れ、受けた衝撃の強さ、好みなど色々あるだろうがその種類の量であったり思いの強さが「関係性の強さ」になるのかなと帰りの新幹線で思った。竹馬に乗ってはしゃぐのも、コマを回せなくてはしゃぐのも、だるま落としが一度も成功しなくてはしゃぐのも全部、過去の体験、思い出や記憶があり、元から私と〇〇という関係性があったからより楽しめた気がする。もちろん成人女性が竹馬に乗ってギャーギャーしてても許してくれる環境だったことも大きいけど。
今回私はこの二日間ものすごくエンジョイしていたのだがその楽しさのもとにあるものは色々なものと積極的に関係性を築こうとしていたからなのかなと思う。色々なものは人であったり街であったり自然であったり。神経を研ぎ澄まして良いものを感じようとしていたからなのかなと思った。
結局人間は自分と関係ないものには興味がないのだろう。当事者デザインというとなんだか仰々しい気がするがそれって自分と関係するから気になる!だからもっとこうしたい!という単純ものなのかなと思う。違うかもしれないけど。
色々なことに対して他人事なのってそれはそのものと自分の関係性に気づけていないからなのだろう。まあその関係性に気づくまでが難しいのだけれども。
覚王山街散歩で思ったけっこうどうでもいい個人的な謎
・何の宗派にも属さないと書いてあった寺に思いっきり「南無阿弥陀仏」と刻まれた仏像があったこと
・寺の裏にお地蔵さんや菩薩像があったこと(なぜ裏?北側にポイントがある?日陰な場所に意味がある?)
【2/3しごと展】
突如であったが席に空きがあったため論理的思考からアイデアを共創するWS(?)に参加した。
広告のキャッチコピーを作るというもので一応それっぽく形にはなって終わったものの、全然中身のないものになった。
曖昧なペルソナ、ペルソナの欲求と結びついていない価値。やりやすいようにペルソナは美大生としてあるのに典型的なファインアートを学ぶ独創的なものを作り上げたり、さっき自分たちで言ってた考え方と矛盾する価値の提供であったりやっていてどうすれば良いのかと頭を抱えた。下手に私の意見でリードしすぎてもそれはもうグループワークではなくなってしまうう。あの場で私はどうすればよかったんだろうか。今思うとあの場はこう言ったアイデア創出方法もありますよーというものだったからおかしいと思った場所はガンガン指摘したほうがよかったのかもしれない。あれが最適解ではないということをしっかり伝えられればよかった......
やっていて美大が厳しいと言われているのがわかった気がする。
それは美大生が悪いのではなく、デザインを学んでいるのに教わっている内容がデザインでなくアートになってしまっているのだろう。
今回すごく楽しかったと言っていた分、また学校に帰ってデザインという名のアートを学ぶのかと思うとなんだかモヤモヤする。
また、デザイン思考を学ぶ意味が少しだけわかった気がする。
企業展
グッドパッチさんの説明を聞いた。
説明後「UX/UIデザイナー」の話を少ししたが、UXデザイナーはUXデザイナーとUIデザイナーを一緒にするのを嫌う人が多い気がする。(まあそもそもUXとUIは別物であるが)
グッドパッチさんは社員全員がデザイナーとのことだが、この「デザイナー」はUXデザイナーなのだろう。
また、上流工程においてエンジニアもUIデザイナーも関係なくインタビューやインサイト抽出を行なっていることに驚いた。まさに全員がデザイナーだからこそできる技だ。
スクラム開発は、2週間を1サイクルとしてプロトタイプを作り、フィードバックをもらい、また2週間で作り~というものであった。これが昨日柿迫さんがおっしゃっていた作ってフィードバックをもらうということなのだろう。
優柔不断極まりなく仕事を伸ばしがちな私たちもこれを意識して動けば精度が上がるだろうか......?
他の企業も聞きたかったが時間の都合で退場した。
そして写真も撮り忘れた。
個人的にAdobeのトートバックが生地が結構しっかりしていて嬉しかった。
【2018.2.2 日本経済新聞社×Goodpatch×MOGLID】
【2018.2.2 日本経済新聞社×Goodpatch×MOGLID】
インハウスデザイナーからフリーランサーまで、3社の話を聞くことが出来たいい機会だった。
それぞれ働き方の違いはあったが、デザインとビジネスは切り離せない存在であることだ。
ビジネスにはデザインがないと成り立たないこと。
トークセッションのときにARCHECOの熊崎さんが「親に職業聞かれたら営業だと言っている」と言い、その時は会場はハハハという感じではあったが、これはとても深刻な問題である気がする。
実際に私も親や祖父母に何勉強してるのと聞かれて答えても理解されなく、結局デザインだから表面的なことをやってるんでしょと言う形で終わってしまう。
もう2年前の話だが高校の時にも小論文でデザインとアートの違いという今思うと根本から違うアホらしいものを書いていた。この時の書いた違いはクライアントがいるかどうかとかだった気がする。つまりデザインはクライアント中心設計の装飾的なものだとこの時は言っているようなものであった。アホすぎる。
しかし、普通科高校に進学した高校3年生の遠藤真緒はそう捉えていて、その文を添削した美術の先生も国語教師も問題ないどころかイイ文章だと褒めてくれるぐらいにはデザインのイメージが旧式のままであった。
(ついでにその先生はいまでも私がグラフィック系のデザインをガリガリやってると思っている)
デザイナーの種類が多様化する一方でデザイナーの捉え方は変わっていかないのはなんでなんだろうなと疑問に思った。
(デザインという言葉の持つイメージが強すぎるから?もしくはデザインの範囲が広がりすぎてデザインの定義が曖昧になっているから?または日本国内から世界を震撼させるようなデザインによる成果がまだないから?)
どんな業種かまだ悩んでいるという話をしたら何になりたいかじゃなくて何をしたいかではないかというアドバイスをいただいた。
自分は一体なににをやりたいのだろうか。
まだはっきりとはしない。でもデザインに関わっていきたいのだろうなとは思う。
今学んでいることは思っているより価値のあることなのだと感じた。
だからといって今学んでいることを受動的に授かっているだけでは全然足りないのだということも実感した。
春休みの間にどう行動に移せるかが鍵だ。
まず手始めに面白みのかけらもない状態のエクササイズのUIを修正しようと思う。
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メモ
1.情報を蓄積する
UI であってもサービスであっても情報の蓄積が大切。
こういう人ならこれが好き、逆にあれは好きじゃないなどデータが自分の中であることでユーザー視点が生まれる(?)
2.プロトタイピング・実装する
何かできたら実際に作って使ってもらってフィードバックをもらうフィードバックをもらうとどんどん良くなっていく。ユーザー中心だったらユーザーに使ってもらってどこが良いか、ダメかを把握する。
3.常にwhyを考える
WhatとHowベースで考えると作業になる。
これをやることで何をしたいのか、なぜやるのか問い続ける姿勢。
言われた言葉をそのまま受け入れないでなぜ?を考える。聞く。
オープンラボ振り返り
オープンラボのサブタイトルに「わたしたちの学び方」とあるように「学び方あってますか?」というのが今回のテーマだった。
(前々から気づいてはいたが)結論から言うとあってなかった。
去年からずっと言われているがプロジェクトがタスク処理になっていた。
どうすればタスク処理にならないかと聞いて教えてもらってもなんとなく腑に落ちないでいた。
今回なんとなくタスク処理からの脱却の道のりがわかった気がする。(気がするだけかもしれない)
⑴学ぶ気持ち
BMCを描いた、収支計画を書いた、ストーリーボードを描いた。でもかいただけだった。
かくことによって何が得られるか、理論上ではなんとなくわかっていてもその得られる「結果」に注目してなく、かいた「手段」に満足して外面だけそれっぽくできてよかったねで終わってしまっていた。
お金がどう動くんだろう?じゃあBMCを描こう。うーんなんとなく動いてる気がする!これでよし!というような。
その手段を使う意味の本質を全然見抜けてなかった。
⑵手を加えようとすること、自分でわかるまでやること、テンプレを壊すこと
BMCを見てこれすごくわかりにくいというコメントを頂いた。
自分自身もなんとなく感じ取っていたが、これがテンプレだから、見本と似たような感じの方がいいと言ってそのままにしていた。
結果として自分自信もよくわからないまま展示会になっていた。かいた本人よくわからないのに見ている人がわかるわけがない。
もしテンプレでよくわからないなら変えればよかったのだと今更気づいた。テンプレはあくまでテンプレであって絶対守らなくてはならないわけではない。
今思うと既存のものを自分の手で変更するということを本能的に恐れて避けていたのかなと思う。
⑶盗もうとする気持ち
TTP(徹底的にパクれ)
パクることは恥ずかしいことではない。
敬意を持ってパクらせていただくくらいの気概で。
グラフィックの面についてももちろんそうであるが、サービスの仕組みについても盗めるものは盗む。既存のものと同じものではダメだが、類似サービスの良いところを盗んで取り入れる。
成功してる=人気がある=良いサービスを提供している
良いサービスから何がいいのかを分析してその結果を取り入れる とか
⑷伝える努力をすること
サービスの中身を見てもらいたくても展示方法やボードのレイアウトがわるいと中身を見てもらう前につまづいてしまう。
最低限のレイアウトができないと本当に欲しい言葉まで行く前に会話が終わってしまう。
また、(2)でも触れたが、元々のテンプレがよくわからないなら見やすいように変更しないと伝わらない。
本当に伝えようとするなら誰に伝えたいのかをはっきりさせてその人に一番伝わる手段を選ばなくては自分も相手もコミュニケーションが取れずに何も生まれずに終わってしまう。
全部書いてあることは当たり前のことではあり足りなかったのは学びへの貪欲さだったのかなと思う。
今回オープンラボで先輩や社会人の方から意見をもらって自分の足りなさに気づけてよかった。