デザインすることで私は何をするのか
山形学会感想ポエムです。
デザインの捉え方が激しく変わりつつある今、学んできたデザイン、現場で求められるデザイン、社会で求められるデザイン、学んでいるデザイン様々なデザインに揉まれ、3年中頃から突如暗闇に落とされ今までもがいてきました。ビジネス視点とかよりよく生きるとか色々混ざって、これからどうやって生きていくんだろうとか色々モヤモヤしてようやく光が差し込んできたような気がします。
山形の地と、山形の人と、おいしいご飯と、学会と、色々な先生と、東北芸術工科大学と、学友たちに感謝。
■デザインとは何か
「おいしい」を求めることは「これからの豊かさ」を求めること。じゃあデザインするとはなんなんだろう。豊かさの追求の手段?
■不安の原因
自分が会社に適合できないのではないか?という不安
色々なところで色々なデザインの話をしていて混乱してしまう。
ユーザーの立場に立って考えられるようにするために当事者によりそうものだと思ってたらそうでもなく
ビジネスでどうユーザーのニーズを把握して優れたビジネスモデルを作り上げるのかって話をしてると思ったらそうでもなく
組織のあり方を話してると思ったらそうでもなく
色々なデザインの領域に触れ、つまみ食いをした故に腹を下したみたいな状態で1年間過ごしてきた。
どのデザインを求められてるんだろう、デザインがいっぱいあることを知ってしまったが故に自分が適合してないのではないかという不安がおしよせてきてたんだなと思う。
■生活者と生産者の話
3年まで主にビジネスにおいてのデザインを学んできて、ユーザーがどんな生活をおくれたら幸せか、何を価値に感じるのか、それと同時にユーザーはどうすればお金を落としてくれるのかそんなデザインの勉強をしてきた。
3年の途中から突然現れた謎の言葉「当事者デザイン」に気を狂わされてきた。
今までユーザーがどうなるかを考えてきたのに急に自分はどうなるかの話をされた。
ビジネスの話とどう生きていくかの話
ワークライフバランスとかワークアズライフとかあるけどワークとライフってそんな対極に扱われる存在なのかな
なんかビジネスの話をするとどう生きていくかは疎かにしなくてはならない。
どう生きていくかを重視するとビジネスは邪魔者になる。
そんな風潮があるのかな。内心自分もそう思ってるのかもしれない。
なんでそう思うんだろう。
■何かを否定しないと何かを肯定できない話
実際問題、別に働くことは生きることを否定しないし生きることは働くことを否定してないんだろうなと思う。なんか考えるときに一見対立しているように見えるから片方をプッシュして考えようとするともう一方を否定した方がなんか捉えやすい気がする。
でも生きている限り生活者であり続けるし生産者でもあり続ける。だから片方の観点だけで語って、もう片方を悪にすると自分自身を否定することになってしんどいのかも。
生活者としての私がいて、生産者としての私もいる。どちらも否定できないし、どちらかを極端に優先させたら壊れていくのかもしれない。
自分のことぐらい自分で肯定してあげたい。
■地域の人
圧倒的に優しい人が多い。びっくりした。こんなに優しいのかってくらい優しい。
ホテルの人、やさしい
タクシーの運転手、やさしい
お土産屋さんの店員、やさしい
横断歩道周辺の車の運転手、やさしい
ラーメン屋の店員、やさしい
静岡でも東京でも味わったことないくらい優しくてびっくりした。優しさに包まれた3日間だった。
■消耗される働き方と消耗されない働き方
同じ接客でも、見てて心地よい接客と苦しくなる接客がある。
今回会った山形の人たちは見てて心地よい。
でも東京駅で声を張って売り子している人とか、困った顔でティッシュ配りしてる人とか死んだ目でレジ打ってる人とか見ると心が苦しくなる。客も店員も両方苦しくなるlose-loseな関係性どうにかできないのかなと思う。
この違いって、働くために己を偽ってるか偽ってないかなのかなとふと思った。
人っていろいろな顔を持つから一概にこれは偽りの顔だとは言えないけど、無理して作った自分で働いてると消耗されてしまうのかな。難しい。
■目に見えるきれいさと目に見える汚さ
わかりやすいインターフェース
それは本質なのだろうか
それっぽさと中身のなさは比例してるのか。
ローカルらしさって何だろう。後から意図的にローカル感を出して作られたローカルはローカルなのか。そもそも作られたローカルって?別に深く考えることでもないけどローカルって素敵!の理由は見た目がおしゃれで雰囲気があるのがいいのか、画一されたのが嫌なのか、小汚さがいいのか、生活者が見えていることがいいのか。
特別きれいなものとか見た目の良し悪しとかにこだわる人間じゃないからこそこういうのにこだわるのってなんでだろうって思ってしまう。面白い。
■デザインすることで私は何をするのか
デザインすることで私は「これからの豊かさ」を考えて、作っていきたい。のかも。
生活者と生産者は本来同じだけど今は別れてしまってる。でもそれぞれ根底にあるのは「豊かに生きること」だとするならば別にお互いを否定し合う存在ではないのかな。
もし生産者の根底が「豊かに生きること」じゃなければ別の話だけどね。
山形いろいろ考えたけどそれと同じくらい楽しみました!全然写真とってないけど!写真って撮るの面倒だからついつい撮らないでいてしまう。ご飯とかすごい美味しいものいっぱい食べたけどご飯の前では無力なので山形メシの写真が一枚もない!びっくり!
東北芸術工科大学がものすごい素敵な場所でした。夜景がものすごくきれい。数少ない写真だけどスマホのISO感度が高すぎて(?)ガビガビになってしまって悲しいです。いいカメラでしっかり撮ったら本当にきれいなんだろうな〜。
4年で記念撮影もしました
ことみんの首の角度がお気に入りです。
■余談
ここだけの話、同じデザインを学ぶ学生が発した「勝手に自分は一生デザイナーでありつづけるんだと思う」っていう言葉に嫉妬してた。自分はデザイナーであり続ける自信がなかったから。
デザイン手法を学んできたし、UIやグラフィックもある程度できる。だからといってテキスタイルに過度な関心があるわけでもないので、これらのことを行う行為がデザイナーなのだとしたら、自分が将来デザイナーであり続けるかというと微妙な気がする。
でももし、デザイナーの役割がこれからの豊かさを作ることとするならば、自分は一生デザイナーであり続けられるのかもしれない。
なんだかそれがとても嬉しかった、そんな山形学会でした。