豆日記

学生という特権を駆使して言いたいことを言い散らかす生き恥の集積場です。

情報デザイン研究会@名古屋

【情報デザイン研究会@名古屋】

 

2/26,27に開催された社会実践型ラボラトリーIn豊田に参加させていただきました。いつもの通り色々と思うことがあったので書き連ねました。

 

2/26覚王山まちあるきフィールドワーク

体で感じて「着眼」し「解釈」する。

本能の赴くままに覚王山を地図を片手にあるいた。

GPSをつかってグーグルマップに目的地へと誘導してもらう生活に慣れた私には地図を片手にどこなのか迷いながら本能のままに歩く体験は新鮮であった。

紙面の地図を持つことで発見をすぐに地図に書き込め、その時の思いをすぐに止めることができた気がする。

町に散りばめられた痕跡を見つけ、それをつなぎ合わせて勝手に解釈して昔はこんなことがあったのだろうと想像することは目的地に着くことだけを考えて動く時には絶対味わえないものだと思った。地理は歴史を物語るなと感じた。

個人的になんでも頭で考えがちで何か変なものや建物があると理屈を求めてしまいがちであった。勝手に解釈して自己満足して終わる。歩いている間はもっと頭を使わずに動いてもおもしろかったなと終わってから思った。

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2/27足助屋敷

五寸釘を叩いてペーパーナイフを作った。

自分が貧弱ゆえにかなり手伝ってもらいながらの作業だった。完成して帰ってきたときしっかりと形になりながらも己の叩いた面影があり感動した。8歳ぐらいまで育てた実子をいたしかたない理由で養子に出し、24歳ぐらいに立派な大人になって帰ってきた気分になった。(そんな経験はないので実際そうなった時にどんな気分かはわからないけど)

帰ってから時折眺めたり自慢したりしてへへへってなってなる。やはり我が子はかわいいものだ。

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わたしとあなたの関係性について

 

私と街の関係性

普段変な道に進もうとしても自分の中の規制や他人からの規制によりいけない。

本能のままに動くって楽しい。

知らない道を歩くだけでも楽しい。

知っている道だとしても音楽を聴きながらスタスタと歩くのと一歩一歩風景をみながら踏みしめて歩くのだと全然違う。

1年ほど前に友人の家へ向かうのにあえていつもの道を選ばずに最初にグーグルマップをなんとなくみてその後はノリと感覚で歩いたことがあったが、道が2本ほどずれただけで住宅街だったりとか。

子供の声、猫や鳥の鳴き声、電車の音、暖かな陽射しやご飯を作る匂いなど同じ住宅街であっても家の近くとは違ったり五感で味わいながら歩くとなんだか心が豊かになる気がする。

今回歩いたのは主に視覚情報から行きたくなる道を無条件的に選んでいた気がする。

と終わった直後は思っていたがカメラロールを見て坂の写真を見てもそこまでトキメキがないというのは視覚以外からも魅力を捉えているのかたと思った。

ただ坂だから登りたい、降りたいではなくて色々な要素が複合的に合わさっているのが良いのだろう。その空間と私の関係性に何かあるから引かれるみたいな。言葉にすると当たり前だ。

何か関係性を見出す。

でもこれってルーティンで行動してると無意識になって関係性を感じられなくなってくる。意識することで関係性に気づいてひかれてしまう(?)

自分と周りの関係について少し意識するだけで世界は変わって見えるのかもしれないと思った。

今回街を歩いていて私は街と私というより街と歴史を無意識的に意識して歩いていたがその歴史に興味を持つ私という点で私と街は関係性を持ったのだろう(?)

 

私とペーパーナイフの関係性

足助の鍛冶屋で刃物製作が終わった後に安武先生が自分が作ったものに愛着が湧くのは当たり前だってようやく気づいたみたいなことを言っていた。当たり前は当たり前なのだがなんで愛着が湧くのだろうかとなったとき、それはそのモノとの関係性がより強いからなのかなと思った。その関係というのは作るまでのストーリー、思い入れ、受けた衝撃の強さ、好みなど色々あるだろうがその種類の量であったり思いの強さが「関係性の強さ」になるのかなと帰りの新幹線で思った。竹馬に乗ってはしゃぐのも、コマを回せなくてはしゃぐのも、だるま落としが一度も成功しなくてはしゃぐのも全部、過去の体験、思い出や記憶があり、元から私と〇〇という関係性があったからより楽しめた気がする。もちろん成人女性が竹馬に乗ってギャーギャーしてても許してくれる環境だったことも大きいけど。

 

今回私はこの二日間ものすごくエンジョイしていたのだがその楽しさのもとにあるものは色々なものと積極的に関係性を築こうとしていたからなのかなと思う。色々なものは人であったり街であったり自然であったり。神経を研ぎ澄まして良いものを感じようとしていたからなのかなと思った。

 

結局人間は自分と関係ないものには興味がないのだろう。当事者デザインというとなんだか仰々しい気がするがそれって自分と関係するから気になる!だからもっとこうしたい!という単純ものなのかなと思う。違うかもしれないけど。

色々なことに対して他人事なのってそれはそのものと自分の関係性に気づけていないからなのだろう。まあその関係性に気づくまでが難しいのだけれども。

 

 

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覚王山街散歩で思ったけっこうどうでもいい個人的な謎

・何の宗派にも属さないと書いてあった寺に思いっきり「南無阿弥陀仏」と刻まれた仏像があったこと

・寺の裏にお地蔵さんや菩薩像があったこと(なぜ裏?北側にポイントがある?日陰な場所に意味がある?)