豆日記

学生という特権を駆使して言いたいことを言い散らかす生き恥の集積場です。

私と大学生活

お久しぶりです。遠藤です。

大学4年間どうだったか近いうちに書くと言いつつもうすぐ2ヶ月経ち卒業式も終え、日付的にも学生最後の日となってしまったのでいい加減に書きます。

卒業エントリ(?)です

 

■4年間でどんな変化が起きたのか

⒈言葉にするのが好きになった
⒉物事に寛容になった
⒊あたり前なものに対してあたり前だと気づけるようになった
⒋己の欠点を許容し、他人の優れているところを認められるようになった
⒌何かにお金をかけるようになった

改めて書いてみると当たり前のことしか書いてなく4年前の自分の稚拙さに笑ってしまう。でも今の私が一年前半年前の自分の行動に対して稚拙だと思うように来年の私は今の自分の行動に対して矮小なやつだなと思うんだろうなと思う。


⒈言葉にするのが好きになった

自分の心が動いたときどうしてそれに感動したのか、「これがこうなっていることに自分は心が動くんだ」逆に「こんな要素があると気持ち悪いし嫌いだと思うんだ」みたいに要素を分解してなんでこれが素晴らしいものなのか、快く思わないのか言葉にして外に出すのが好きになった。
伝わる嬉しさが云々みたいなのに書いたけど純粋に誰かに伝わる、共感してもらえるのが根源的な嬉しさなんだろうなって思う。
好きなものをなんで好きか言葉にすると曖昧だったものが形を持った「好き」になってより好きになってる気がする。
嫌いなものに対して逆もまた然りみたいなところはあるけど。
あと書いてから数ヶ月後に読み直すと面白い。
ものすごい偏見で物事を語るとオタクやメンヘラが長文で語りたがるのはオタクやメンヘラが長文で語るんじゃなくて長文で語っているうちに過度なオタクやメンヘラになっていくのかもしれない。

⒉物事に寛容になった

デザインでユーザー調査をしてきたからか、ただ単に社会性が身についてきたからか他者に寛容になった。
他者を人間だと思うようになった。生きてるんだからミスはあるし生きてるんだから疲れる。なら別にこっちが折れて問題ない程度な全然いいか、みたいな。
成果物として出てきたものに問題が起きてるとその出てきた直前の人や物が悪いみたいに思ってしまいがちだけどその成果物に至るまで全てを通してどこかしらにエラーが起きてるから最終的に問題がおこってそのエラーも起こしたくて起きてるわけじゃないとすれば別に責めることでもないな、と。

 

⒊あたり前なものに対してあたり前だと気づけるようになった

2の内容に近い。
教えてないことはできないしよっぽど記憶力が良くないかぎり1度サラっと言ったことを次完璧のこなすことは難しい。自分と他者は違う存在なのだから同じ天秤にかけるものでもなく、ましてや自分ができなかったことを他者に強要するものではない。
自分の価値観は他者の価値観とは違うことなんてあたり前のことでよく言われてることなのにふに落ちて思考できるようになったのはそんな昔ではない気がする。

 

⒋己の欠点を許容し、他人の優れているところを認められるようになった

自分の欠点はいくらでもあるし直したいところも多くある。一方で欠点と言いつつもその欠点に対して自分は悪くないという思考や、他者の優れている点にたいして劣等感やひがみみたいなものを抱いている癖があった。多分今でも抜け切ってはいない。でも前よりはマシになったかなと思う。負けず嫌いであることと他者を否定することは違う。他者に対して尊敬できるようになったし素敵だと思えるようになれてよかったなと思う。

 

⒌何かにお金をかけるようになった

純粋にバイトを始めて使えるお金が増えたからだと思うけど、お金って使わないと意味ないなと思いようになった。経済回してけ〜。
私があまり物欲が強くなく特別収集癖があるわけでもなく、最低限のことにしかお金を使わずに生きてきた。大学1年のとき月に2万しか使ってなくて笑ってしまった。たぶんあのままの生活を送っていたら余裕で貯金200万ぐらい貯まってると思う。
価値があるなと思ったらお金を入れようと思うようになった。今は無料サービスが多くてお金を使わなくても楽しめるものがいっぱいある。でも自分に恩恵があってこのおかげで人生楽しめてるなと思うようなものであればお金を入れようと思えるようになった。物欲じゃないお金の入れ方をしている気がする。
善意(?)で使われるお金、善意で回る経済ってなんだか面白いなと思う。

 

大学でデザインを学びながら、デザイン以外のものを多く学んだ気がする。人間として生きていくことを学んだのかな。今はこんな風に屁理屈こねたような文章を書いて良い人間であろうと思考のコルセットのようなことをしているけどいつかは自然に人格者みたいな思考を持てたらいいなと思う。


なんだかんだあったけど4年間楽しかったしみんな好き。捻くれてる自分がこんな文章を書く日が来るとは思わなかった。
ありがとうこれからもよろしくね。

 

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あとは最近自分がめちゃくちゃいいこと言ったなと思ったのでおまけで載せておきます。


■自分を愛して生きていけ

他人と一緒にいると楽しいけどちょっと価値観合わないな、もっとこんなこと話したいな、同じこともっと熱く話したいなって思う時がある。その点自分自身と共存して生きていると最高だ。
妥協点とか逆に拘りたいと思う点も完全に一緒だから変に気を使う必要もないし好きなもの嫌いなものも絶対に一緒。
過去の自分のメモなりツイートなりブログを読むと「めちゃくちゃこいつ解釈一致するな……こいつと一緒に酒飲んで語り尽くしたい……」と思う。自分自身って同じ熱量で物事見てくれるし解釈も完全に一致するから絶対に仲良くしたほうがいい。

卒制とお金と私の振り返り

お久しぶりです。遠藤です。
卒展が終わりドタバタもひと段落したので区切りとして何か文章を描きたいなと思ったので書きます。卒制についてです。これとは別に4年間を終えて何か書こうと思ってます。毎回纏まりないですが今回は特に纏まりないです。

 

卒制の内容についてですが、人様に見せるのが申し訳ないほどのものだったので公には何をしているのかあまり発信していなかったのですが、よくよく考えたら今までこれだけ恥を晒してきたんでまぁ関係ないかと踏ん切りがついたので公表しようかなと思います。

 

お金についての卒制をしておりました。
もともとお金に関して考える機会が多かった4年間でしたが、改めてその集大成としてお金とは何かを考え直しておりました。
成果物としましては「小規模コミュニティにおいて信頼と原動力を生み出す通貨システムの提案」として簡易的なシステムとUIを作りました。いわゆるお金の持つ「価値」を無くし、「意味」を送り合うことで信頼を醸造し、その結果行動を起こしやすくするというものになっています。色々と(主にグラフィック面が)ガバガバですが遠藤の価値観は詰まっていると思います。

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これを考え出した経緯ですが、展示していた長文ポエムを貼っておこうと思います。

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お金と価値ってなんだろう。

今日、人々の消費行動が変化し、モノ消費からコト消費へと移行してきているといわれている。このように、お金の使い方や、ニーズが変化する一方で、資本主義という、お金を絶対的指標とするシステムは変化していない。お金の示す価値は本当にそのものの価値を示すものなのだろうか。

お金の示す価値とは一体何なんだろう。もしお金が示す価値がそのものの価値を示すなら私の価値は1時間1050円だ。私より頭の回転が早い主婦は1時間950円で働いている。
資本主義においてお金になることは価値があるが、お金にならないことは価値がないとされる。己の価値だけではない。自分の中で価値があると感じるものが、世の中の仕組みとしては価値がないとされるこのギャップはなんだろう。
本来お金は手段であるはずなのに、なんでお金が重要事項のように扱われがちなのだろう。
お金という価値基準は正しいのだろうか?金という尺度の与える影響は強い。
お金の有無なんて生まれながらに選べない。もしお金は信用というのなら生まれながらその信用が少ない、多いというのはどういうことなのだろう。

なんで生きることとお金って結びついてるんだろう。お金がなくて苦しいとはなんだろうか。
「こんだけ働いてるのに金こんだけかよ、貰えないのかよ」
「ボランティアって搾取じゃん」
何気ない会話で聞く言葉だ。お金に関して結構シビアな目で見ている。
生きることと稼ぐことは結びついているのだろうか。お金以外の対価ってなんなんだろう。逆にお金を対価にするってなんなんだろう。

これだけお金お金言ってるけど、お金で何がしたいんだろう。
お金で何がしたいかを考えると充実した暮らしを送ること。お金の裏側に暮らしがあるというよりは暮らしの土台にお金がある。

では「よりよく生きる」を肌身で感じるためにお金が必要なのだろうか。「よりよく生きる」とは何か。

「よりよく生きる」とは受動的なものではなく、もっと能動的なものなのではないだろうか。
他人のクリエイティブ性に触れた時、自分も何か行動したくなる。「自己」が何か行動したいという欲求に駆られてしまう体験が「よりよく生きる」ことに繋がるのではないか。
自分の価値観という軸を持って、いまの自分を内省して、「自分が何をしたいか」を考えて行動することが「よりよく生きる」ことなのかもしれない。

結局のところ、お金は道具。
ただの生きることをより潤滑にするツールでしかない。
お金に善悪は存在せず、勝手に大きく捉えすぎているだけなのではないか。
お金をどうこうしようという視点ではなく、お金をどう活用すればより有効に利用できるかという視点が大事なのではないか。

お金の示す価値は人々のなかでの絶対的な価値を示していない。お金で価値を示すのではなく、お金は価値を示す物差しのひとつにすぎない。
そうなるとすればお金の価値とは、人々が「よりよく生きる」ことをより潤滑にするツールであることなのではないだろうか。

そして、「よりよく生きる」ことをベースにお金をとらえ直した時、新たな価値のものさしがうまれるのではないだろうか。


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改めて読むとぐちゃぐちゃで汚い文ですが、私は「お金」自体に違和感を感じていたのではなく価値を示す媒体が「お金」というものに大きく依存していることに違和感を感じていただのだろうなと思います。
目の前に価値があると信じているものの価値を表明するのがお金しかないことが苦しい。
お金を使う人に対してとやかくいうつもりはないが、お金でしかその価値を表明できないのはしんどい。ただ金を持たざるもののひがみかもしれないですが。
私がちょこちょこ行っている舞台は一公演7000円〜15000円ぐらいで、大体相場は1万前後だ。これは高いとか安いとかいう問題ではない。
私は舞台を見て生きるエネルギーをもらっていると言っても過言ではない。その世界観やその完成形に至るまでの裏方作業、脚本、演出、音響、衣装大きな熱量で動いている。そしてそれらを一身に受け止め、己が果たせる役割を全うし表現する役者たち。役としての価値観はもちろん、役者自体の価値観、未来、過去に思いを馳せてその素晴らしさに心を打たれている。舞台を通して内省し、自分はどう生きたいか、どうすればいいかを考えている。
これだけ多大なる影響を受けているものに対して私が渡せるものはチケット代と物販の費用だけだ。私はお金を渡すことでしかこれらの価値を示すことができない。バクステを見ただけでどれだけその世界観を作るのに苦悩しているかわかる。その成果を私はお金を払うだけで得ることができるのだ。
お金をバカにしているわけでもないし、お金の重要性はわかっている。金で殴る行為を否定しないし結局お金でしか表明できないのでお金を使っている。でもお金を使うことしかできないことに虚しさを感じる。

なんか長々と書いてしまいましたが多分ここら辺が己の根元なのかもしれないなと終わった後に思いました。

 

また、お金の価値とは別軸で、お金を稼ぐことに対するモヤもありました。

以前書いた気がしますが3年間UXとサービスデザインを学び、最後は当事者デザインという言葉に全てをぐちゃぐちゃにされました。(あくまで主観ですが)
今まで私が学んできたことはビジネスとしてなり得るかを前提として考えていて、自分はお金稼ぎのための歯車になってしまうのか、私は搾取する側になってしなうのか、ビジネスは悪なのか、私が尊敬している人たちは悪なのか。思考がどんどん淀んでいき、考えるべき本質を見失ってるなと思いじぶんの中でスッキリとするためにお金をテーマにしました。

働くことと稼ぐことは繋がっているようで自分にとっては繋がってないものなのかもしれないなと。(ただ単に自分が重ねたくないだけかもしれませんが)
この1年ビジネスとは離れ、生きることとは何かとか人間が人間らしく生活するとは何かをミクロ的マクロ的両面から見つめ直してきました。結果、なんとなく今まで生きることと働くことはワークライフバランス的思考で別のものだと捉えてたのですが、生活の中に働くという行為があるんだなと思うようになりました。まだ社会人として働いていないのでどうなのかわかりませんが。もし来年以降「やっぱ重要なのはワークライフバランス。働くことと生きることは別で働くことが私生活に入り込んでくるのは絶対に良くない」みたいなこと言ってたら笑ってやってください。


己の卒制についてはここら辺で展示中にもらった言葉とか考えたこととか次に書きます。

◼️価値と価格の話
ここら辺がごっちゃになってたから苦しかったのかもしれない。価値=価格ではないことは理解しつつも同じ軸で捉えてた節があるから頭を抱えてたのかも。価値を一番明確にわかりやすく示す物は価格であることは事実だけど価値=価格というわけではない。お金の示す価値とその行為や物の価値は違うんじゃない?と自分で言いながらそこに一番振り回されていたのは自分なのかもしれない。


◼️対価としての報酬と投資としての報酬の話
報酬(給料)というものは過去に行った行為に見合ったものという考え方ではなく、その報酬を利用してコンディションを整えて次の行為がよりよくなるように投資するという考え方もできるという話を聞いてなるほどなと思った。そんな考え方が当たり前になれば日本は変わっていくのかもしれない。
行為と対価の関係性は難しい。価格のレッテルを貼られると良くも悪くも「あぁ、私はこの程度の価値の人間なのか」と思う。勝手に私の行為の価値を決めるなという話だ。


◼️価値の軸の話
なんだかんだ言いつつ、結局が現代における代表的な価値の表記手段はお金である。
何かお金を使うとき、その物にお金を払うんじゃなくてその価値にお金を払うんだって考えればいいんじゃない?という話。
自分が価値の軸を持っていればただお金を使うのではなくてその価値は何か何をもたらしてくれたかを考える。そう思うと何に価値を感じているのか勝手につけてくれて勝手に分類してくれて、それを後から見直して自己を見つめ直せるっていいよねという話。


他にも送りたいものは受け取りたいものだという話や自分の軸から価値を捉える話などいろいろ言葉をいただき、なるほどな〜と思ったのですが、自分の言葉で置き換えられなかったので己の心に刻んでおきます。

今年は遠方からも多くの方にご来場いただきありがたい言葉をいっぱいいただきました。あらためましてこの場でお礼申し上げます。ありがとうございます。

 

卒展が終わってバタバタしてたのがひと段落して気の抜けた生活を送っていると本当に卒業するんだなと少ししんみりします。

卒展では今まで知らなかった同学部の人の作品を見て、うちの学部ってこんなにも頑張れる人がこんなにもいるんだなとものすごい失礼な事を思いました。そういえば芸術系の学部だったなと。良い卒展でした。

4年間の振り返りもちょこちょこメモに書いているので近いうちにそちらもあげようと思います。

それではまた。

 

伝わる嬉しさと世界に生きる希望を感じた話

Design ship2019!ビジュアルシンキングパートナーとしてグラグリッドのグラフィッカーとして描いてきました!

 


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今年はプロカメラマンの逢坂憲吾さんが撮って下さったのではちゃめちゃに綺麗で臨場感があって絵が美しいです。


Design ship2019の振り返りではなく感想文になります。デザイン問答です。

 


■この世界この時代にデザインに携わって者として生きててよかったなと思った話

こんなにも真剣に世の中のこと考えて、デザインって何か、生きるって何か考えて実践してる大人がいるって素晴らしいな

自分はあるシリーズものの舞台が好きで、その理由が若手俳優を本気で育成してくれているところで、舞台上のカーテンコールでライトに照らされながら最高の笑顔をみせる瞬間が本当に好きで、こんなにも輝いてくれてありがとう、輝かせてくれてありがとうと思いながら見ている。

でもそれって別に舞台だけの話ではないんだなって

なんだろうな。自分たちの未来を考えてくれてる、こんなにも恵まれた環境で、生きてることに感謝だなと思いました。

 

自分勝手に色々デザイン問答して悩んで失望したり希望を見出したりしてたけど、別に私1人が抱えている問題ではないなと今更自覚しました。両極端でしか捉えてなかったから勝手に苦しんでたけど同じように苦しんでるのは私1人じゃないしすでに実践者はいるしみんな苦しんでみんなでどうにかしようとしてるんだなと改めて気付かされた。

 

 

■グラレコは書き手の代弁者ではなくて聞き手の代弁者であった話

「自分の話が描かれる」が嬉しいんじゃなくて「伝わってる」ことが嬉しいんだなって今更思った。伝わるって嬉しい。

今回描くとき、手頃なアンケートみたいなイメージなのかなって思ったけど、それよりもお前の話こんな風に伝わったぞ!と聞き手の代表として登壇者に伝えるという意味合いもあったのだと気づいた。

ボードを見て聞き手があ〜ここよかったよね!って思う場なんじゃない。聞き手はすでにここがよかったです!って想いが存在するから代表して描いてただけなのかなと。


でもやっぱり実際に書いて貼るってハードルが高い。TwitterとかFacebookで拾ってこっちで描くとか、聞き手全体の感想を踏まえた上で書いてみるとかも面白いかも。


色々考えたけど望月はもっとメタで考えててなるほどなぁとなったので引用。

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望月ブログより

◾️おいしいおつまみの話

考えること、それを表に出すこと、言語化すること、これって本当に難しい。私自身も、セミナーやイベントに行ってインプットした後に、質問を求められたり意見を求められても、なかなか出てこない類の人。

よく大人が「懇親会が一番面白いんだよ」と言うのが、全てを物語っている気がする。一番面白いのはお酒とつまみを片手に熱く語り合うこと!笑 堅く言えば、受動体から能動体になって、皆で知恵を紡ぎ、次のアクションに繋げていくことではないだろうか?お酒とおつまみは、その手段🍺

 

この二日間で、ビジュアルボードを「おいしいおつまみ」として考え語らっている参加者の姿を見る度に、ビジュアライズの価値を感じることができた。


https://mtzkkotomi12.hatenablog.com/entry/2019/11/26/221304

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あぁ、そういうことかと腑に落ちました。

同じ年齢で同じコースで同じように学んでるのにここまで適格に言語化されると嫉妬しちゃうし正直悔し

 

*追記
アンケート的なものかなって思ってたけど〜って書きましたが実際にこの役割はあると思ってます。登壇者から参加者へ伝わる嬉しさと参加者から登壇者に伝わる嬉しさ両方向で伝わる嬉しさがあるんじゃないかな。私は自分の感想とか想いがその根元(=登壇者)に届いてたらめちゃくちゃ嬉しいです。登壇者から想いが伝わって能動的に付箋に書いちゃうくらいのデカイ感情を持った時点でもうその人のファンみたいなものだと思ってます。

 


■溢れ出てくるクソでか感情を持つ人たち

なんか周りを見てみると、デザイナーはみんなクソデカ感情を抱えて生きてるなぁと

前に狂気の中で生きていたいという話を端の方に書いたけどこれってそういうことなのかな。制御しきれないほどのクソデカ感情を抱えているときが狂気の中で生きているのだとしたら、狂気的な人間ほど人生楽しいし、どうにかしてでもそのクソデカ感情伝えるためにアウトプットするのかなと。

デザイナーはそのアウトプットの術を持ってるのは幸せなことだって思ったけど、そうじゃなくてクソデカ感情をアウトプットしたいと思って行動に移してたらデザインという手法に辿り着いているのかもしれない。

 


■誰かにこの想いを伝えたいと思った時の話

そういえばこのブログを書き始めたきっかけも自分のこの思いを誰かにぶつけたいって想いからだったなと。私の話を聞いてくれって思って常にブログを書いてる気がする。聞いてくれって思わなかったら別にスマホのメモで済ませばいい話だけどこうしてわけわからない長文でブログを書くんだから誰かにこの感情を知って欲しいと思ってるんだろうな。

別に知見を広める系のブログじゃないし。

 


自分は今なにか狂気的なまでの感情を持っているのかどうなんだろうなぁ

 


■デザインとは愛であった

一年半ほど前に愛に飢えた遠藤はよくわからずにデザインとは愛の結晶だったんだなみたいな発言をしてたけど、改めてデザインは愛なんだなと思った。

改めて愛がないとデザインできないなと。

今はもう売れるためのデザインをやってる人はほとんどいなくて、売れる製品をつくる工業機械としてデザイナーが消耗されることは求められてい。もしそうなら、デザイナーはなにをするのか

こうあって欲しいという傲慢な愛を持って、その愛を原動力に理想の世の中を作る起点になっていくのかなと。

 

書いてて世の中の気が狂ったデザイナーたちは何でそんなにも気を狂わすことができるのか聞いて回ったら面白そうだなと思いました。多分何にもならないけど

 


■ユーザーは共犯者であってほしい

共犯者って言葉はなんか適してないけど

ユーザーって言葉がなんか好きじゃない。

サービスデザインは神のふりかけではない。

こんな暮らしっていいよね〜パラパラ〜ではなくてこんな暮らしを一緒に作りませんか?でありたいな。

 

 

■学校の話

別に卒制のこと嫌いじゃないけど全然進んでないやってないなんでだろう。実は卒業したくないのかというレベル。


歴代の先輩方が積み上げてきたものをぶっ壊した上に先輩方が集めてきた甘い蜜は啜って生きてきた学年だけど後に何か残せているのだろうか。なんだかんだ色々あったけど今まで良い思いをさせてもらってるし、何なら多分これからも色々と手助けをしてもらうと思うし、大人に支えられてここまで来ている自覚がある。美味しい部分だけ全部かっさらって去っていくのは申し訳ないのでなんかできることがあったら言ってください。

 


ふと考えたら伝えるとか動かすとかの考え方は卒制と同じシステムだなと

自分の生き様とか考え方が一種の卒制の成果みたいなものだよなと思える。他者に触れて自分も行動して価値観や考え方が変わってそれでまた他者に影響を与える(自分が与えてるかはわからないけど)

当たり前だけど卒制って今の「自分」の価値観の生き写しになるんだなと周りや自分を見て思った。出来栄えの云々はまぁあるけど根本にある軸や考え方はこの大学生活で考えてきたことや培ってきたものが反映されてるわけで面白いなぁと思った。

 

 

 

 

 

 

 



 

デザインすることで私は何をするのか


山形学会感想ポエムです。


デザインの捉え方が激しく変わりつつある今、学んできたデザイン、現場で求められるデザイン、社会で求められるデザイン、学んでいるデザイン様々なデザインに揉まれ、3年中頃から突如暗闇に落とされ今までもがいてきました。ビジネス視点とかよりよく生きるとか色々混ざって、これからどうやって生きていくんだろうとか色々モヤモヤしてようやく光が差し込んできたような気がします。

山形の地と、山形の人と、おいしいご飯と、学会と、色々な先生と、東北芸術工科大学と、学友たちに感謝。


■デザインとは何か

「おいしい」を求めることは「これからの豊かさ」を求めること。じゃあデザインするとはなんなんだろう。豊かさの追求の手段?

 

■不安の原因

自分が会社に適合できないのではないか?という不安

色々なところで色々なデザインの話をしていて混乱してしまう。

ユーザーの立場に立って考えられるようにするために当事者によりそうものだと思ってたらそうでもなく

ビジネスでどうユーザーのニーズを把握して優れたビジネスモデルを作り上げるのかって話をしてると思ったらそうでもなく

組織のあり方を話してると思ったらそうでもなく

色々なデザインの領域に触れ、つまみ食いをした故に腹を下したみたいな状態で1年間過ごしてきた。

どのデザインを求められてるんだろう、デザインがいっぱいあることを知ってしまったが故に自分が適合してないのではないかという不安がおしよせてきてたんだなと思う。


■生活者と生産者の話

3年まで主にビジネスにおいてのデザインを学んできて、ユーザーがどんな生活をおくれたら幸せか、何を価値に感じるのか、それと同時にユーザーはどうすればお金を落としてくれるのかそんなデザインの勉強をしてきた。

3年の途中から突然現れた謎の言葉「当事者デザイン」に気を狂わされてきた。

今までユーザーがどうなるかを考えてきたのに急に自分はどうなるかの話をされた。

ビジネスの話とどう生きていくかの話

ワークライフバランスとかワークアズライフとかあるけどワークとライフってそんな対極に扱われる存在なのかな

なんかビジネスの話をするとどう生きていくかは疎かにしなくてはならない。

どう生きていくかを重視するとビジネスは邪魔者になる。

そんな風潮があるのかな。内心自分もそう思ってるのかもしれない。

なんでそう思うんだろう。


■何かを否定しないと何かを肯定できない話

実際問題、別に働くことは生きることを否定しないし生きることは働くことを否定してないんだろうなと思う。なんか考えるときに一見対立しているように見えるから片方をプッシュして考えようとするともう一方を否定した方がなんか捉えやすい気がする。

でも生きている限り生活者であり続けるし生産者でもあり続ける。だから片方の観点だけで語って、もう片方を悪にすると自分自身を否定することになってしんどいのかも。

生活者としての私がいて、生産者としての私もいる。どちらも否定できないし、どちらかを極端に優先させたら壊れていくのかもしれない。

自分のことぐらい自分で肯定してあげたい。

 

■地域の人

圧倒的に優しい人が多い。びっくりした。こんなに優しいのかってくらい優しい。

ホテルの人、やさしい

タクシーの運転手、やさしい

お土産屋さんの店員、やさしい

横断歩道周辺の車の運転手、やさしい

ラーメン屋の店員、やさしい

静岡でも東京でも味わったことないくらい優しくてびっくりした。優しさに包まれた3日間だった。


■消耗される働き方と消耗されない働き方

同じ接客でも、見てて心地よい接客と苦しくなる接客がある。

今回会った山形の人たちは見てて心地よい。

でも東京駅で声を張って売り子している人とか、困った顔でティッシュ配りしてる人とか死んだ目でレジ打ってる人とか見ると心が苦しくなる。客も店員も両方苦しくなるlose-loseな関係性どうにかできないのかなと思う。

この違いって、働くために己を偽ってるか偽ってないかなのかなとふと思った。

人っていろいろな顔を持つから一概にこれは偽りの顔だとは言えないけど、無理して作った自分で働いてると消耗されてしまうのかな。難しい。

 

■目に見えるきれいさと目に見える汚さ

わかりやすいインターフェース

それは本質なのだろうか

それっぽさと中身のなさは比例してるのか。

ローカルらしさって何だろう。後から意図的にローカル感を出して作られたローカルはローカルなのか。そもそも作られたローカルって?別に深く考えることでもないけどローカルって素敵!の理由は見た目がおしゃれで雰囲気があるのがいいのか、画一されたのが嫌なのか、小汚さがいいのか、生活者が見えていることがいいのか。

特別きれいなものとか見た目の良し悪しとかにこだわる人間じゃないからこそこういうのにこだわるのってなんでだろうって思ってしまう。面白い。

 

■デザインすることで私は何をするのか

デザインすることで私は「これからの豊かさ」を考えて、作っていきたい。のかも。

生活者と生産者は本来同じだけど今は別れてしまってる。でもそれぞれ根底にあるのは「豊かに生きること」だとするならば別にお互いを否定し合う存在ではないのかな。

もし生産者の根底が「豊かに生きること」じゃなければ別の話だけどね。

 

 

 

山形いろいろ考えたけどそれと同じくらい楽しみました!全然写真とってないけど!写真って撮るの面倒だからついつい撮らないでいてしまう。ご飯とかすごい美味しいものいっぱい食べたけどご飯の前では無力なので山形メシの写真が一枚もない!びっくり!

東北芸術工科大学がものすごい素敵な場所でした。夜景がものすごくきれい。数少ない写真だけどスマホISO感度が高すぎて(?)ガビガビになってしまって悲しいです。いいカメラでしっかり撮ったら本当にきれいなんだろうな〜。

 

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4年で記念撮影もしました

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ことみんの首の角度がお気に入りです。

 

 

 

■余談

ここだけの話、同じデザインを学ぶ学生が発した「勝手に自分は一生デザイナーでありつづけるんだと思う」っていう言葉に嫉妬してた。自分はデザイナーであり続ける自信がなかったから。

デザイン手法を学んできたし、UIやグラフィックもある程度できる。だからといってテキスタイルに過度な関心があるわけでもないので、これらのことを行う行為がデザイナーなのだとしたら、自分が将来デザイナーであり続けるかというと微妙な気がする。

でももし、デザイナーの役割がこれからの豊かさを作ることとするならば、自分は一生デザイナーであり続けられるのかもしれない。

なんだかそれがとても嬉しかった、そんな山形学会でした。

函館にて

 

様々な経緯の末、函館に木づかいプロジェクトの合宿に参加してきました。

 

ものすごいモヤモヤを抱えた状態で参加した合宿だったけど終わった今では少しモヤが晴れた気がします。本当に参加できてよかったです。機会があればまた参加したいと思える程度には本当に参加してよかったと思います。

 

中京大学の上芝先生、宮田先生、宮田ゼミのみなさん、一緒に合宿に行ってくれた望月、合宿でお会いしてお話ししたみなさんには感謝の気持ちでいっぱいです。

 

ここからは遠藤が参加してよかった〜って思った理由とか参加しながらこんなことを考えてた〜って話です。色々考えすぎて書ききれない部分もあるので何か落ち着いたら別の機会で書こうと思います。

 

◼️クリエイターとしての遠藤を肯定された話


最近全然何かを作るんだという思いがわかなかった

F班が、行き詰まってるとき、みんなで息抜きに散歩してたら一人が道端の花でパパッとおしゃれなフラワーアレンジメントを作り、そのクリエイティブ性とか完成度の高さを見て他メンバーも負けてられねぇ!と結果的にものすごい模型を作り上げてしまった。

その話を聞いた時、その花を見た時、その模型を見た時、自分が悔しいと感じ、自分も何か作りたいと思えたことがものすごい嬉しかった。

最近何をしてもあまり悔しいとか、何か作りたいとかの欲求がなくて、常に妥協点でなんとなくなんとかしてた気がする。

そんな自分でもまだ悔しいとかもっと作りたいとか、そんな想いが残ってたんだということがたまらなく嬉しかった。

 

 

 

◼️好きなものは好きでいいんだなって思った話

なんか自分って絵を見るのは好きだけど自分から好んで絵を描くことが多いわけではないし、音楽も好きだけど自分で弾かないし、演劇も観るのは好きでも自分が演じようとは思わないし、自分の好きなことって全部受動的な楽しさばかりだった。能動的な趣味って全然無くて、なんかクリエイティブに〜とかいう話だったり他の人が音楽とかやってるみたいな話きくと何となく自分が受け身に回ってるただの享受者に甘んじているダメ目な存在のように思えてなんとなく苦しかった。

多分これって自分の中で作ったあるべき姿にとらわれてたのかな〜って思う。

別に好きなもんは好きでいいじゃ〜ん。

好きを冒涜する権利は誰にもないよ。

なんだかんだ言って自分の行動の根源にあるのは好きなものへの感謝だなって改めて思った。

 

 

 

◼️何をして生きていくか

何をすればいいかじゃなくて何をしたいかなんだよなって思った。

最近ずっとこれから何をして生きていくんだろう、今やってるUXの考え方なんて近いうちに当たり前のことになるわけで自分の(一応)専売特許が専売特許じゃなくなったとき、自分は何して生きていくんだろうってのを漠然と考えてた。

その時の環境において自分が何ができるかっていう結構烏滸がましいこと考えてて、何もできないのでは?という風に思ったりその時はその時でなんとかなるかと考えてたけど結局は何かできるかじゃなくて何をしたいかなんだなって思った。

○○ができるから△△するって考えでいると一生現状維持なってしまう

△△したいから○○をできるようにするの方が人生楽しそう

 


人生楽しく生きた〜い

 


◼️人生やったもん勝ちだなという話

なんか今まで何かをやるのに中途半端なことしかできないのに行動の移そうとするのって自分はこんな中途半端にしかできないんだってを世の中に曝け出しているようで恥ずかしくてすごく嫌だったんだけどそうじゃないんだなって今更思った。

もちろん自分が中途半端な実力だって自覚は必要だけど、それを理由にやらないのは違うなって

できないからやらないんじゃなくてやらないからできないし、行動しない時点でできないけどやってる人を僻む理由にはならないよなって本当に今更実感した。

 

 

 

◼️己の幼稚さにかなしくなった話

悲しい。

なんか本当にどうしようかなって感じ

他人のパフォーマンスを上げられるような行動をしたいのに自分の幼稚さのせいで最終的にパフォーマンス下げちゃうのなんとかしたい。

多分無意識のうちにマウント取ろうとしてるんだろうなと思う。もう少し棘の少ない人間でありたい。

 

 

 


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◼️余談

始めて北海道に行ったんですがめちゃくちゃ道が広くて、道がまっすぐで驚きました。

函館についての知識が戊辰戦争旧幕府軍が負けた場所(?)で海鮮が美味しいくらいの知識しかない状態で行ったので、なんでこんな街並みなんだろうという話をしながら勝手に函館史を考えるのが少し楽しかったです。


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私と合宿とWell-Being

伊東線が終日止まる中殆どのメンバーが伊東の旅館に無理やり集まる学畜っぷり。ブラックサークルと名高いことは承知の上でも私が親ならキレている。こんな波乱を乗り越えて人間の営みは感じられるのか。美しさとはなんなのか。突如言い渡された謎のお題とともにWell-Beingな生き方を解明すべくまさかの熱海を練り歩く。

夏の暑さに体力も精神も削られながら見えるものは一体何か。

2019年インアンドアウトラボ伊東合宿、開幕です!

もう終わってるけど。

 

 

 

合宿の内容とかは部長が語ってるのでそちらで!

https://mtzkkotomi12.hatenablog.com/entry/2019/09/11/093936

 

 

 

関係ないですが遠藤は体調不良のままFWしたら気管支炎が肺炎に悪化しました。うつした人いたらごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

◼️己は一体何者か

 


人間の営みは美しいと思う。

ご飯を美味しそうに食べている人が好きだ。

他人が美味しそうにご飯を食べてる様子を見ると嬉しくなる。罪悪感にかられながらもご飯を残してしまう人を見ても頑張ったねと思う。

作品を作るが好きだ。

様々な観点から物事を捉えて巧みな言葉遣いで表現する。

陽炎や風の音、麦茶の氷が溶ける瞬間に想いを馳せ、それを風流だと感じる心が素晴らしいと思う。

 


本を読んでいる人を見るのが好きだ。

その本を読むことで驚かされたり、感動したり、心を動かされるということが美しいと思う。

謎の落書きが好きだ。

絶対これ描くの危険を冒してるだろとか、全くもって意味がわからない壁の落書きをみるとその無意味極まりない労力を費やす行為をした人が存在するんだということが微笑ましく思う。

好きなことをやっている人が好きだ。

自分が好きなことに対して熱量をこめて、時間を費やして、それを何かに繋げようと必死になる姿は見ていて応援したくなる。

嫌いなことをやっている人が好きだ。

嫌々ながらも何かの目的を果たすために葛藤をはらみながら行動する姿は愛おしさを覚える。

 


反社会的行為とか、人間としてしてはならないこととか、社会の影に入る部分のことは全く視野に入れていない状態だけど、基本的には人間が起こす行動は多少の善悪は営みとして愛おしいと思う。

 


でも一方でこの視点って誰の視点何だろうなとも思う。

間違いなく私の言葉で語っているわけではあるんだけど私という当事者の言葉ではない。

多分私の目の前でご飯を食い散らかされたらイラつくし、目の前で急に本気で短歌とか詩を詠われたら何行ってるんだコイツと思う。好きなことしてる人は応援したい気持ち同時に多分嫉妬するし嫌なことしてるひとには可哀想だと同情する。

一部はただ単に私の心が狭いだけなのかも知れない。でも好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いなのだ。

己の思考に矛盾をはらんでいる。

 


だけどもう一人の私はそんなわけわからない思考をもつ自分自身もこの複雑で単純な思考を人間らしくて面白いからいいじゃんと全肯定している。

 


全ての行為を愛おしむ世界線の私は人間の営みを愛おしむって行ってるけど実際その人間は生身の人間として見てるんじゃなくて舞台:地球、演者:人間みたいに物語のように他人事として見ているのかなと思う。確かにそうすると人間って何してても馬鹿でかわいいなって思うけど当事者間だからこそわかる問題を無視してしまう気がする。恐ろしい。

 


この神の視点で人間を愛する心も大事だけど引きすぎて脳内理想郷を語り出してバイアスかかりまくりみたいな状態にならないようにしないと危険だなと思った。何か行動に移すにはこの神に視点では何もできなくて、自分の視点で考えられないと、ただの他人の物語になってしまいそう。

 


余談だがこの神の視点を持つようになってから己の考え方正当化したり、心のマウントを取るのが上手くなった気がする。周りからしたらただの害悪だけど。

 


◼️Well-Beingは存在するのか

上記の己は何者か問題を考えているうちにWell-Beingは存在するのか問題にも直面した。

今回このWell-Beingは「より人間らしく生きる」、「生きていることに喜びを感じる」とか「生きていることを励まされる」という意味で使っている。神の視点から見たら、人間って面白い、美しい、愛おしいって思うけど遠藤個人としてみると自然に生きていて「あ〜生きててよかった〜人間として生を受けてよかった〜世界に感謝」って思うことってあるのだろうか。

個人的な趣味として舞台をみるのが好きで、舞台を見終わった後に「あ〜生きててよかった〜人間として生を受けてよかった〜世界に感謝」って思うことはある。冗談抜きで世界に感謝している。役者はもちろん、演出家脚本家衣装メイク照明バックヤード関連その他諸々その舞台に関わった全ての人、物に感謝している。

この熱烈な想いは神の視点ではなく間違いなく遠藤の内から湧き出る感情だ。ただこれは超非日常の状態であり、劇薬だとも思う。

 


私が勝手におもうWell-Beingとは日常やちょっとした非日常から生きる楽しさを感じる行為である。そうなると遠藤の当事者感としてそういう経験が思い浮かばない。なんかよくわからない美化が施されてあのときなんかよくわからないけど心が満たされた気がするってのはあるけどそれがよりよく生きることに繋がってるのかというと首をかしげる

神遠藤の視点でみると全ての行為が生きるって良いことだってなるけど人間遠藤の視点で見ると基本的にはただ生きているだけだ。

そうなるとWell-Beingとは実在するのか、神遠藤のエゴなのではないかという疑問が出てきた。

 


◼️遠藤個人的な合宿の目的の話

このWell-Beingエゴ問題の結論を求め神遠藤ではなく人間遠藤が「あ〜生きてて良かった〜」と思えるのかどうか確かめるために熱海の地へと降り立った。

結論としては合宿で「あ〜生きてて良かった〜」とまではいかなかった。

ただ暑かった。途中テンションが少し上がることがあっても暑さの前では無力だった。

そもそも今回のチームのお題である夏の風を感じるよりも冷房の風を感じていたいという女にクソ暑い中で生きる喜びを感じる方が難しい。しかも体調不良と電車が止まってテンションだだ下がりのダブルパンチつきだ。

神遠藤がそれもまた人間という感想を抱く隙なく人間遠藤の体力と精神がレッドゲージになり、生きることに必死だった。意味不明な暑さ、溢れる観光客、止まらぬ咳に動かぬ電車。Well-Beingどころか生きていることを否定されている気がした。badly-being。

 


◼️心の余白とWell-Being

結局の話心に余裕がないと生きる喜び、暮らしの中でどうしたいかななんて感じる余裕がない。

合宿前に事前会議で神遠藤と人間遠藤が話し合った結果「よりよく生きる」とか「生きる喜び」「生きてて良かった」としみじみと心に染み渡るときは余白の時間なのではないかという結論になった。

生きてく上で必要不可欠なものではない、ある意味非効率で、機能性の観点から見ると一見価値がないように見える無駄な行為、余白の時間にしみじみと心に染み渡る生きる勇気与えてくれるものがあるのではないかという仮説を立てた。

結論としては前提条件を満たせなかったため検証はできなかった。函館に持ち越し。

 


◼️神遠藤ウキウキポイント

よくわからない看板とか急な階段とか、あからさまに急にこしらえた手すりとか、人間の爪痕が残る光景っていいなと思う。

完璧な状態ではなく、妥協点でこしらえている感じがなんとも言えない人間臭さがあっていいなと思う。完全に自然には争いきらず、ほどよく和解して、生活できる程度に手を加える感じがなんとも言えない。ところどころに神社があって、自然を崇める、共存してる感じか人間と営みという感じがして好き。

 


書いていて思ったことなんだけど、人工物と自然の共存に魅力を感じるのは神遠藤としてで、自然現象とか、人間が関わりようのない部分に惹かれてしまうのは人間遠藤の心なのかもしれない。

もしかしたら今回のテーマ「Well-Being」って人間遠藤の心の揺らぎというのがキーポイントなのかもしれない。「私が」好き、「私が」良いと思う、「私が」圧倒される。そんな風に常に「私」主体で心を揺さぶられることが「よりよく生きる」ことなのかもしれない。そう思うと今回の合宿の敗因は「私」が足りてなかったのかもしれない。他者のせいにすると「私」を引きずり出すほどの心が揺さぶられなかったとも言えるけど。

 

 

 

 

何か色々書こうと思ったことはあった気がするけど忘れたのでここら辺で締めます。思い出したらどこかで書きます。

 

 

合宿の思い出を雑に並べておきます。


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今回というより毎回ですが久保田の優しさに触れ心の涙を流してました。thank you 久保田。感謝。ありがとう。

 

 

 


全く関係ない話ですが卒業旅行というものに深い関心を持たない人間なので周りが海外〜キャッキャっとしてるなか熱海でいい温泉に浸かりたいと考えていた。でも実際熱海を歩いてみて思ったより都会で程よく観光のために最適化されていて求めていたのはこれではないという結論に勝手にいたりやっぱ長野かな〜と思いました。長野に詳しくないけどなんか長野なら程よく田舎そうなイメージがある。

おしゃれ〜とかエモとかどうでもいいから傷心旅行に行きたい。エモじゃ私の心は満たされない。虚無に浸りながらどこかの片隅で体育座りで誰にも邪魔されず鎮静作用を持つような光景を見ていたい。今回使った言葉で言うなら「私」を引きずり出して「私」を圧倒してほしい。体操座りで「私」をしみじみと感じる場所に行きたい

でも一人は寂しいからたまに誰かかまって欲しい。強欲。

 

 

インターンと思ってることとか

 

遠藤の近況報告です。生きてます。

 

インターンに行ってきたのでこれを機にその時に考えたこととか最近思ってることとかクソポエムとか書きました。

 

インターンの2週間、体調崩して友達との予定をドタキャンし、布団が柔らかすぎて安眠できず、慣れてきた頃は咳により3時間ごとに起こされ、当初インターン期間中にやろうと思ってたことは一切できず田町周辺から一歩も出ない生活を送ってましたが先輩と肉は食べられたのでHAPPYです。

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概要

◼️インターンに行ってきた

◼️新卒はお客様か従業員か問題

◼️グラレコの有意性について

◼️自分にない文脈を把握する難しさ

◼️最近ユーザー中心思考である自信がない話

◼️「UX/UIデザイナー」と和解した話

◼️生きるって大変だなって思った話

◼️狂気の中で生きていたい(クソポエム)

◼️昨日の自分の恥を背負って生きていく(クソポエム)

 

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◼️インターンに行ってきた

内定を頂いている会社に2週間と短い期間だったけどインターンに行ってきた。

内定者インターンとしては最高のインターンだった。社内の空気感とかどんな仕事をすることになるとか、そこらへんが体感できたのがよかった。半期総会の時点で薄々感じてたけど社員のレベルが高すぎてビビった。めちゃくちゃ優秀な人多くて自分ここにいていいのかと不安になった。頑張りたい。

UXデザイナーとしてのインターンってなんとも言えないなと思った。エンジニアだったらコードかくとか、デザイナーとしてのインターンだったら実際にバナーとか簡単なUIとか任せられるけどUXデザイナーって特別モノ作るわけではないしだからといってWS設計とか任せられないしでもUI投げるのも一応UXデザイナーとしてのインターンだし、ほんと扱いにくい存在をインターンで受け入れてくれて、程よく仕事を投げてくれて連れ回してくれて感謝。20新卒としてというよりUXデザイナーとして(?)面白いなって思える情報がモリモリで純粋に楽しかった。

個人的な最終目標は職場にでっかいyogiboを置くことです。

 

 

◼️新卒はお客様か従業員か問題

1day-1weekのしっかりカリキュラムが組まれてるインターンでくる学生は選考があろうとなかろうとお客様だと思う。

就労型のインターンになると従業員なんだと思う。

でもなぜか新卒ってなると半分お客様みたいな雰囲気あるなって思う。

兄とか友人の様子を見てると内定後、学生を逃がさない?ためにけっこう必死に囲い込んでて、へへ、ウチいいっすよ。どうぞ、美味しいご飯です!福利厚生もいいっすよ!みたいになんか会社が下手に出てるみたいな。

そこまで言うなら行ってやるか!みたいな思考でいると入社後に急に同等の立場(同等ではない?)に立たされてギャップにビビるという感じなのかなと勝手に仮説を立ててみた。それか新卒というレッテルが貼られてる間はヨシヨシしててくれたけど新卒じゃなくなった途端できるでしょ!みたいな流れになるとか?偏見100パーセントだから実際のところはわからないけど。

新卒はサバンナに急に放たれた哀れな子ウサギだからヨシヨシして守ってあげなきゃダメだよみたいな風潮がお客様感でるのかな?

(実際に社会はサバンナで新卒は子ウサギなのかは知らない。)

ついでに私は哀れな子ウサギポジとしてヨシヨシして守ってもらいたい。

 

 

 

◼️グラレコの有意性について

グラレコってちゃーーんと意味がある。知ってたけど改めて体感。

グラレコって言われるとどうしても有難いお話しとかLTとかをパパっと描いちゃってヒョーすご〜いみたいなイメージがあったんだけど必要なのって別に一人が話していることをまとめることじゃなくて発話における場の共通認識を作ることなんだなって思った。この話何度目だみたいなところはある。

 


個人的に華やかなグラレコは(自分がなかなか綺麗にまとめられないので)苦手意識が強いけどこっちの方が共通認識を生み出すツールとしてのグラレコはできるようになれれば強いなと思った。

頭の回転が早い人同士だと同じスピードでバンバン話して合意形成とか共通認識ができるかもしれないけど自分のように「で、結局どういうことなんだ?」となってしまう人間には必須のツールなのかもしれない。

自分自身まだ上手くないけど4月までに鍛えておきたい要素の一つだなと思った。

 

 

 

 


◼️自分にない文脈を把握する難しさ

エンパシー/シンパシー問題

結局自分には自分の価値感の保管庫の中に入っていない文脈は理解できない(できていない)なとしみじみ感じた。

ならば自分の価値感の保管庫を増やすしかないね。最近色々な人にインタビューする機会があって色々な考え方があって純粋に面白いな〜って思いながら聞いてるけど、どうしても聞き方とか考え方に無意識のうちに「自分」というフィルターがかかってしまうのをなんとかしなくちゃな〜と思った。

特に何も目的なくその人の人格形成に至る今までの道のりみたいなのを知るためだけの遠藤がただ面白いだけのインタビューしたいなって思った。

 

 

 

◼️最近ユーザー中心思考である自信がない話

自分の中でサービスデザインってのは開発者のエゴみたいなのが必要だと思ってるんですがそれとは別に自分がユーザー中心で考えられてる気がしないなって思えてきた。

基本的になんかサービス考える時とか、ペルソナ作るときにとかめちゃくちゃユーザーとかペルソナ大好きでお前のこと絶対に幸せにしてやるから覚悟しとけよって思いながら生きてるんですがそれって一人称は誰なんだろうとか、上のエンパシー/シンパシー問題にもあるように、インタビューとか分析をする際、どうしても視点が「自分」が入ってきてしまって価値観に寄り添えてなかったり、ここに来てもしかして自分、UX的思考ができてない!?と壁にぶち当たりました。やばい!

 

 

 

◼️「UX/UIデザイナー」と和解した話

3年のインターン期間中にキレ散らかしてたUX/UIデザイナー問題、なんとなく和解した。いいのか悪いのかわからないけど。まぁでも未だにスラッシュいるか?とは思ってる。


そもそもあの頃はなんであんなにも様々なものに過激にイキり散らかしてたのかってほどイキってたけど棘が丸くなりただ歪な存在となってきてる。

結論から言うとただ単にUXばかり勉強してきたからUIクソみたいなのしか作れない、でも求人情報はUIデザイナーしかない腹いせに怒り散らした。ただの私怨。

 

 

 

 


◼️生きるって大変だなって思った話

普段実家で母が自分の身の回りの面倒をみてくれていて、一人で2週間生きていかに自分が人生楽して生きてきたかがわかった。他人に依存して生きるって楽だなぁ。

今までの人生において食べるって面倒だけどお腹は空くし美味しいという感覚は味わいたいからなんかいい感じに美味しくてお腹がたまって箸を口元に運んで咀嚼するっていう行為をショートカットできないかなと思ったことがしばしばあったけど食事が出てくる状態でそう思うんだったら一人で生きていたらもっとヤバイなと思った。実際食べるの面倒で何回か夕飯を抜いた。確実に実家の時よりも食事量が減っている。一人で生きてたら知らない間に栄養失調で死ぬかもしれない。危機感を抱いた。

 

 

 

 


◼️狂気の中で生きていたい(クソポエム)

他人から見てあいつら気が狂ってるのかって思うけど楽しそうに生きてるからある意味人生勝ち組だよなって言われるような人生を送りたい。

よく好きなものに気を狂わされて生きてきたけど、仕事って観点でも気を狂わされて生きていきたい。

ある一定のタイミングでは正気になって、俯瞰して現状はどのような状態か、良い状態か、悪い状態かみたいなのは確認するけど、基本的に狂気の中で生きていたい。

その狂気って何?って言われたら言語化はできないけど。

個人的に今までの人生のなかでものすごく物事がすすむときって狂気の中で仕事?してるときかなって思う。狂気の中っていうより正気じゃない中?その後俯瞰してみてどうだったかまでやらないと暴走して終わってしまうけど。

 

 

 

◼️昨日の自分の恥を背負って生きていく(クソポエム)

日々今日起こした己の恥を振り返り悲しくなって生きてる。毎日生き恥かいて生きてる。恥をかかずに過ごした日はない。このブログ自体も生き恥でしかない。

できることならそこらへんですれ違った見ず知らずの自分の人生に絶対影響を与えないような毎日ハッピーですみたいな人に自分の恥を押し付けたい。でも自分でかいた恥は誰かが背負ってくれることはないから自分の恥は自分で背負うしかない。悲しい。

何をしたところで昨日の恥はなくならないし今日も恥をかいてるし日々恥を積み重ねるしかない。悲しい。

毎日楽しく生き恥かいて、今までの恥を背負って明日も楽しく生きていきたい。

毎日楽しく生き恥かいて生きてくのが狂気の中で生きる第一歩なのかもしれない(?)